25.日坂宿

25.日坂宿(2007.11中旬)
ガイドブックによれば最寄駅はJR掛川駅からバスで30分「八幡宮前」とのこと。

周りは一面、お茶畑。そしてカマキリ。
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登り坂もさることながら風がとんでもなく強い。汗が冷えて寒い。
季節にもよるが日坂を越える時は上着が必要かも。
帽子やかつらなんか簡単にもってかれそうだ。


日坂宿までに沢山あった歌碑。祠、道。
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接待茶屋跡の石碑、防火看板、久延寺
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うさぎ、マッチポンプ防火かよ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル


久延寺の夜泣き石

むかしむかし、暗い夜道を大きなおなかをした若い女の人が小夜の中道の峠を越えようとしていました。
そのとき、暗がりから盗賊があらわれました。
「金を出せ!」
「どうぞ、命ばかりはお助けください。私のおなかには、赤ちゃんがいるのです。」
女の人は命ごいをしたのですが、盗賊は言うことも聞かず、ばっさりと切り殺し、持ち物を奪うと、どこかへ姿をくらませてしまいました。
女の人の息はもう止まっていましたが、その傷口から、赤ちゃんが生まれました。

しかし、赤ちゃんは元気がなく、自分の力では泣くことができませんでした。
このままでは誰にも気づかれることなく、赤ちゃんも死んでしまいます。
そのとき、不思議なことに、近くにあった石が大きな声で泣きはじめたのです。
聞きつけた村人がかけつけ、赤ちゃんを助けだしました。
死んだ女の人は手厚く葬られました。
それから、しばらくして夜になると時折、この石は声をあげて泣くようになりました。
こうして誰となくこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになったのです。(夜泣き石

(wikiの夜泣き石 (小夜の中山)の項ではちょっと違う結末だった)

そんな石があったなら寄っておけば良かったな、と読み進めると

本堂の東側には、伝説の夜泣き石が奉られています。久延寺境内にある夜泣き石は、昭和三十年代に峠の人たちが石の段(夜泣き石があったところ)で見つけて、寺へ運んできたものだそうです。浮世絵に描かれた夜泣き石は、バイパス沿いの小泉屋裏手に祀られています。([昭和の夜泣き石]

工エエェェ(´д`)ェェエエ工、違う石かよ


関連リンクをたどると

小泉屋裏手にある階段を登ると小さな広場があり「夜泣き石」が祀られています。夜泣き石は、明治元年まで浮世絵に描かれているように東海道の道の中央にありましたが、諸事情から何度か移動されて現在は小泉屋裏手に置かれています。また、ここには菊川から出たという平らな形の「菊石」も祀られています。(「小泉屋裏の夜泣き石」

なぜ夜泣き石が小泉屋にあるか
夜泣き石は、明治元年天皇が東幸するにあたって畏れ多いとして、沓掛の茶店に動かされました。それから久延寺境内に移した後、明治十四年に東京浅草で開かれた「勧業博覧会」に夜泣き石を出品することになりました。しかし、すでに東京ではハリボテの石の中に子供を入れて泣かせる偽物の夜泣き石が評判を得て稼いでおり、本物の夜泣き石は「少しも泣かない」といって不評に終わりました。焼津港まで運んだものの、お寺まで運ぶ費用が無く雨ざらしになっていました。それを中山新道からお寺まで運ぼうとしましたが、急坂のため運びきれずに峠の下の小泉屋の庭先に置くことになったそうです。 (同上)

こんな扱いされたら、そりゃ泣くわ。・゚・(ノД`)・゚・。


夜泣き石でぐぐってみると、他の地域でもちらほらとヒットする。

伝説 夜泣き石
洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く(釜井庵の夜泣き石(塩尻市)

1564年、第二次国府台合戦の時、敗戦した里見方の戦死者は五千余名にものぼり、
そのとき里見軍の武将、里見弘次も戦死しました。
それを知った弘次の末娘の姫は、この父の霊を弔うため、はるばる安房の国から
この戦場へとやってきたのですが……、
姫はまだ十二~三歳、あまりにも凄惨な戦場の跡を見た姫は、恐怖と悲しみから
傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついには絶命してしまいました。
その後、姫は埋葬されましたが、姫の魂はその場に残り、姫がもたれかかった石からは、
毎夜「しくしく…」と女性のすすり泣く声が聞こえるようになり、
里の人々は、その石を「夜泣き石」と呼んで、たいへん怖れたそうです。(夜泣き石(市川市)

芦名時代、事情あって捨て子にされた子供どもが、夜中に魔物に呼び寄せられ喰い殺されようとした時、夜明けまで大きな石がしっかりと子供の足をおさえて魔物に喰い殺されるのを防いだと言われている。今でも子供の左足型のようなものが残っている。
 また夜泣きする子をおぶって、ここにお参りすると夜泣きがぴたりと止まるという噂が立ち、多くの母親が子供を連れてお参りした。それ以後、夜泣き石と呼ばれている。(夜泣き石(福島県川東町)

天人が余呉湖で水浴びをしていたとき、桐畑太夫が衣を隠して、天人を嫁にした。2人の子ができたが、天人は子守娘の唄から衣の場所を知り、天に帰ってしまった。子守は子を石の上に放って帰った。赤子が泣いたらその声が読経の声であったので、菅山寺の住職はその子を連れ帰って育てた。それが後の天神様。この石はその後も夜毎に泣いたので夜泣き石といわれ、耕地整理で動かそうとしたら祟りがあった。(余呉村の民俗―滋賀県伊香郡余呉村―

大塚山丘陵では、毎年不思議な出来事が起こっておりました。その出来事とは、空がうっとうしく垂れ下がり風がなま暖かく頬をなでると「グオーン、グオーン」と、まるで神から見はなされた者が地面を這いずって泣くような、不気味な音で大塚山の巨大な牛石が泣き始めるのだそうです。(消えた牛石(夜泣き石)(大塚山丘陵にまつわる話四話その二)※"https://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,963,53,267,html"にアクセスすると"この接続ではプライバシーが保護されません"と表示される…?

この石は200年ほど前に国分の浜へ落ちてきたといわれています。夜ごと物悲しげに夜泣きして、近所の人たちを怖がらせたので、寺の本堂前に置いたところ、夜泣きはピタリととまったといわれています。
石を叩くと金属音がします。
(隕石だったら伏木は今ごろ消滅してクレーターとなっているハズ…などとは考えないように)
天から降ってきたかどうかは定かではありませんが、浜辺にあったことで、潮の満ち引きに合わせて何かが石に触れ、「カーン、カーン…」と音を立てていたのかもしれません。
石自体は安山岩(サヌカイト)であるという説が有力ですが、いつから運び込まれたのか、何故これを持ち込んだのか、色々想像してみるのも面白いですね。
天から降った石(本堂前)


この中で由来が異なるものは福島県川東町の話か。
これだけは石が音を発していない。原型に巨石信仰などがあるのだろうか。
滋賀県の天女伝説系も元の説話が変化したもののように思える。
塩尻・市川は恨みや嘆き系、ここ日坂の話は母の情愛系か。
松原市の話は音を発するものの中でも微妙に違うような気がする。
風とか雪解けとかそういった定期的に発生する自然現象によって起きているような。
他の音はすすり泣くような音だし。
高岡市の石は隕鉄なんじゃ…( ・´ω・`)? でもサヌカイトらしい。

讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。(讃岐岩

なんらかの振動と共鳴して石が泣くのかなぁとぐぐっているとサヌカイトの楽器というページに辿りついた。昔は石も楽器だったんだなぁ。まあ結局のところ、なんで泣くかはよくわからなかった(w 

ス~ト~ン~なぜ泣くの~スト~ンの~勝手でしょ~(・∀・)♪


日坂へ向かう途中に店屋らしきものはあったが閉まってたり、
開いてるかどうか不明だったので先を急いだ。
シーズンオフということだったからか、はたまたこの辺は月曜日定休なのか(´・ω・`)
食料品店もあったが、坐って食べたかったのでスルー。
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小夜の中山公園 小夜という文字を見て
氷高小夜を思い出す俺はギルガメ世代のおっさん(*´・ω・)
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一里塚x2、鎧塚、白山神社、道x2
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馬頭観音
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よくある荷役に使われていた馬達を弔うものかと思ったがちょっと違うようだ。
蛇身鳥(蛇身鳥物語)という昔話があり、その蛇身鳥を退治しにきた三位良政が、
乗ってきた愛馬を葬った場所らしい。

深彫り欄間「小夜之中山蛇身鳥物語」を読んだり子育て飴の話を読むと
蛇身鳥と夜泣き石の話もごちゃまぜになっていて良く分からない(w

蛇身鳥の話自体がインドか中国原産の話をベースにしていて
そこに子育て幽霊の話も混ざってるような気もするし…。
案外、蛇身鳥は子の死を嘆く母などではなく、
猛禽類や盗賊豪族の類とかだったりして(・∀・)


ここの休憩所で一休み。
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ちょっと進んだところに夜泣き石跡が。
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もう後は下るだけ。
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写真は沢山撮ったが、ほとんど立ち止まることもなく通過した。
日坂宿でも食べ物屋さんが見当たらず。
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古宮橋を越えてしばらく行くと415号線に合流。
村の境界が。昔は色々と争いなどがあったんだろうか
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事任八幡宮 ことのままと読むのか。
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また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。(事任八幡宮

とあるが、「東海道中膝栗毛」のどの辺りだろうか。三編上では日坂宿に泊まって巫女と一騒動を起こしてるだけだし…三編下の冒頭の「ふるみや誉田の八幡を打過、」とあるからこれのことかな?このあと話は掛川の方に行ってしまうし。事任八幡宮のページにも「東海道中膝栗毛」からの引用はない。

事任八幡宮の御由緒に

江戸時代の記述では、「己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡宮を称す。延喜式内佐野郡に属す」とあります。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」でした。旅に携えた東海道の道中案内図などには必ずと言ってよいほど誉田八幡が記されていました。この時代は「ことのまま」が忘れられかけた「ことのまま」空白の時代でした。(御由緒

とあるから恐らくそうだろう。ってガイドブックに「誉田八幡宮」って書いてあった(w
まあ何にしても「願い事が叶う神社」としては出てないから他の文物といっしょくたの表記にしちゃうのは違うような。


雄鯨山・雌鯨山というのがあるらしい。
空腹と疲労で全然気がつかなかった。
途中、道の駅があったけれど道を渡って更に奥まで行かないと駄目そうだったので先を急いだ。
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八坂インターチェンジを越して250号線に入りしばらくしてまた一号へ途中塩井川原なる場所があるが、弥二北が猿市犬市を騙そうとした塩井川なのかな。

福天大権現の参道標、一里塚
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火の見櫓だ(・∀・)
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一号線と合流したり離れたり。
座って食べるんだとか思っていたのに最終的には空腹に耐えかねてコンビニで買ったパンとおにぎりを食べた。

本村橋?から左の道へ入る

逆川の鳥、岩橋
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秋葉山常夜灯
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大頭龍大権現
平岩佐平隠居之地
誰だろう?ぐぐってもヒットしない。

伊藤嵐牛門人とある。伊藤嵐牛でぐぐるとヒットする。

伊藤嵐牛は、寛政10年(1978)に掛川市八坂に生まれた。幕末から明治にかけて活躍した俳人で、松尾芭蕉の流れを汲む鶴田卓池に入門した。また、和歌国学を石川依平から学んだ。
浜松から静岡までに、約300人の門人を養成し、門人の一人に松島十湖がいた。その生家は、嵐牛蔵美術館として開放(事前予約が必要)されている。

門人は300人居たということなので、その中の一人なのか。ということはどうでもよくて、
なんで植田まさしのカリアゲくんの絵が…こいつは一体( ;・´ω・`)ゴクリッ

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真新しい常夜灯。逆川にかかる馬喰橋を渡る。この辺から掛川宿側か
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