月: 2009年7月

25.日坂宿

25.日坂宿(2007.11中旬)
ガイドブックによれば最寄駅はJR掛川駅からバスで30分「八幡宮前」とのこと。

周りは一面、お茶畑。そしてカマキリ。
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登り坂もさることながら風がとんでもなく強い。汗が冷えて寒い。
季節にもよるが日坂を越える時は上着が必要かも。
帽子やかつらなんか簡単にもってかれそうだ。


日坂宿までに沢山あった歌碑。祠、道。
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接待茶屋跡の石碑、防火看板、久延寺
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うさぎ、マッチポンプ防火かよ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル


久延寺の夜泣き石

むかしむかし、暗い夜道を大きなおなかをした若い女の人が小夜の中道の峠を越えようとしていました。
そのとき、暗がりから盗賊があらわれました。
「金を出せ!」
「どうぞ、命ばかりはお助けください。私のおなかには、赤ちゃんがいるのです。」
女の人は命ごいをしたのですが、盗賊は言うことも聞かず、ばっさりと切り殺し、持ち物を奪うと、どこかへ姿をくらませてしまいました。
女の人の息はもう止まっていましたが、その傷口から、赤ちゃんが生まれました。

しかし、赤ちゃんは元気がなく、自分の力では泣くことができませんでした。
このままでは誰にも気づかれることなく、赤ちゃんも死んでしまいます。
そのとき、不思議なことに、近くにあった石が大きな声で泣きはじめたのです。
聞きつけた村人がかけつけ、赤ちゃんを助けだしました。
死んだ女の人は手厚く葬られました。
それから、しばらくして夜になると時折、この石は声をあげて泣くようになりました。
こうして誰となくこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになったのです。(夜泣き石

(wikiの夜泣き石 (小夜の中山)の項ではちょっと違う結末だった)

そんな石があったなら寄っておけば良かったな、と読み進めると

本堂の東側には、伝説の夜泣き石が奉られています。久延寺境内にある夜泣き石は、昭和三十年代に峠の人たちが石の段(夜泣き石があったところ)で見つけて、寺へ運んできたものだそうです。浮世絵に描かれた夜泣き石は、バイパス沿いの小泉屋裏手に祀られています。([昭和の夜泣き石]

工エエェェ(´д`)ェェエエ工、違う石かよ


関連リンクをたどると

小泉屋裏手にある階段を登ると小さな広場があり「夜泣き石」が祀られています。夜泣き石は、明治元年まで浮世絵に描かれているように東海道の道の中央にありましたが、諸事情から何度か移動されて現在は小泉屋裏手に置かれています。また、ここには菊川から出たという平らな形の「菊石」も祀られています。(「小泉屋裏の夜泣き石」

なぜ夜泣き石が小泉屋にあるか
夜泣き石は、明治元年天皇が東幸するにあたって畏れ多いとして、沓掛の茶店に動かされました。それから久延寺境内に移した後、明治十四年に東京浅草で開かれた「勧業博覧会」に夜泣き石を出品することになりました。しかし、すでに東京ではハリボテの石の中に子供を入れて泣かせる偽物の夜泣き石が評判を得て稼いでおり、本物の夜泣き石は「少しも泣かない」といって不評に終わりました。焼津港まで運んだものの、お寺まで運ぶ費用が無く雨ざらしになっていました。それを中山新道からお寺まで運ぼうとしましたが、急坂のため運びきれずに峠の下の小泉屋の庭先に置くことになったそうです。 (同上)

こんな扱いされたら、そりゃ泣くわ。・゚・(ノД`)・゚・。


夜泣き石でぐぐってみると、他の地域でもちらほらとヒットする。

伝説 夜泣き石
洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く(釜井庵の夜泣き石(塩尻市)

1564年、第二次国府台合戦の時、敗戦した里見方の戦死者は五千余名にものぼり、
そのとき里見軍の武将、里見弘次も戦死しました。
それを知った弘次の末娘の姫は、この父の霊を弔うため、はるばる安房の国から
この戦場へとやってきたのですが……、
姫はまだ十二~三歳、あまりにも凄惨な戦場の跡を見た姫は、恐怖と悲しみから
傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついには絶命してしまいました。
その後、姫は埋葬されましたが、姫の魂はその場に残り、姫がもたれかかった石からは、
毎夜「しくしく…」と女性のすすり泣く声が聞こえるようになり、
里の人々は、その石を「夜泣き石」と呼んで、たいへん怖れたそうです。(夜泣き石(市川市)

芦名時代、事情あって捨て子にされた子供どもが、夜中に魔物に呼び寄せられ喰い殺されようとした時、夜明けまで大きな石がしっかりと子供の足をおさえて魔物に喰い殺されるのを防いだと言われている。今でも子供の左足型のようなものが残っている。
 また夜泣きする子をおぶって、ここにお参りすると夜泣きがぴたりと止まるという噂が立ち、多くの母親が子供を連れてお参りした。それ以後、夜泣き石と呼ばれている。(夜泣き石(福島県川東町)

天人が余呉湖で水浴びをしていたとき、桐畑太夫が衣を隠して、天人を嫁にした。2人の子ができたが、天人は子守娘の唄から衣の場所を知り、天に帰ってしまった。子守は子を石の上に放って帰った。赤子が泣いたらその声が読経の声であったので、菅山寺の住職はその子を連れ帰って育てた。それが後の天神様。この石はその後も夜毎に泣いたので夜泣き石といわれ、耕地整理で動かそうとしたら祟りがあった。(余呉村の民俗―滋賀県伊香郡余呉村―

大塚山丘陵では、毎年不思議な出来事が起こっておりました。その出来事とは、空がうっとうしく垂れ下がり風がなま暖かく頬をなでると「グオーン、グオーン」と、まるで神から見はなされた者が地面を這いずって泣くような、不気味な音で大塚山の巨大な牛石が泣き始めるのだそうです。(消えた牛石(夜泣き石)(大塚山丘陵にまつわる話四話その二)※"https://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,963,53,267,html"にアクセスすると"この接続ではプライバシーが保護されません"と表示される…?

この石は200年ほど前に国分の浜へ落ちてきたといわれています。夜ごと物悲しげに夜泣きして、近所の人たちを怖がらせたので、寺の本堂前に置いたところ、夜泣きはピタリととまったといわれています。
石を叩くと金属音がします。
(隕石だったら伏木は今ごろ消滅してクレーターとなっているハズ…などとは考えないように)
天から降ってきたかどうかは定かではありませんが、浜辺にあったことで、潮の満ち引きに合わせて何かが石に触れ、「カーン、カーン…」と音を立てていたのかもしれません。
石自体は安山岩(サヌカイト)であるという説が有力ですが、いつから運び込まれたのか、何故これを持ち込んだのか、色々想像してみるのも面白いですね。
天から降った石(本堂前)


この中で由来が異なるものは福島県川東町の話か。
これだけは石が音を発していない。原型に巨石信仰などがあるのだろうか。
滋賀県の天女伝説系も元の説話が変化したもののように思える。
塩尻・市川は恨みや嘆き系、ここ日坂の話は母の情愛系か。
松原市の話は音を発するものの中でも微妙に違うような気がする。
風とか雪解けとかそういった定期的に発生する自然現象によって起きているような。
他の音はすすり泣くような音だし。
高岡市の石は隕鉄なんじゃ…( ・´ω・`)? でもサヌカイトらしい。

讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。(讃岐岩

なんらかの振動と共鳴して石が泣くのかなぁとぐぐっているとサヌカイトの楽器というページに辿りついた。昔は石も楽器だったんだなぁ。まあ結局のところ、なんで泣くかはよくわからなかった(w 

ス~ト~ン~なぜ泣くの~スト~ンの~勝手でしょ~(・∀・)♪


日坂へ向かう途中に店屋らしきものはあったが閉まってたり、
開いてるかどうか不明だったので先を急いだ。
シーズンオフということだったからか、はたまたこの辺は月曜日定休なのか(´・ω・`)
食料品店もあったが、坐って食べたかったのでスルー。
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小夜の中山公園 小夜という文字を見て
氷高小夜を思い出す俺はギルガメ世代のおっさん(*´・ω・)
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一里塚x2、鎧塚、白山神社、道x2
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馬頭観音
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よくある荷役に使われていた馬達を弔うものかと思ったがちょっと違うようだ。
蛇身鳥(蛇身鳥物語)という昔話があり、その蛇身鳥を退治しにきた三位良政が、
乗ってきた愛馬を葬った場所らしい。

深彫り欄間「小夜之中山蛇身鳥物語」を読んだり子育て飴の話を読むと
蛇身鳥と夜泣き石の話もごちゃまぜになっていて良く分からない(w

蛇身鳥の話自体がインドか中国原産の話をベースにしていて
そこに子育て幽霊の話も混ざってるような気もするし…。
案外、蛇身鳥は子の死を嘆く母などではなく、
猛禽類や盗賊豪族の類とかだったりして(・∀・)


ここの休憩所で一休み。
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ちょっと進んだところに夜泣き石跡が。
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もう後は下るだけ。
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写真は沢山撮ったが、ほとんど立ち止まることもなく通過した。
日坂宿でも食べ物屋さんが見当たらず。
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古宮橋を越えてしばらく行くと415号線に合流。
村の境界が。昔は色々と争いなどがあったんだろうか
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事任八幡宮 ことのままと読むのか。
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また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。(事任八幡宮

とあるが、「東海道中膝栗毛」のどの辺りだろうか。三編上では日坂宿に泊まって巫女と一騒動を起こしてるだけだし…三編下の冒頭の「ふるみや誉田の八幡を打過、」とあるからこれのことかな?このあと話は掛川の方に行ってしまうし。事任八幡宮のページにも「東海道中膝栗毛」からの引用はない。

事任八幡宮の御由緒に

江戸時代の記述では、「己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡宮を称す。延喜式内佐野郡に属す」とあります。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」でした。旅に携えた東海道の道中案内図などには必ずと言ってよいほど誉田八幡が記されていました。この時代は「ことのまま」が忘れられかけた「ことのまま」空白の時代でした。(御由緒

とあるから恐らくそうだろう。ってガイドブックに「誉田八幡宮」って書いてあった(w
まあ何にしても「願い事が叶う神社」としては出てないから他の文物といっしょくたの表記にしちゃうのは違うような。


雄鯨山・雌鯨山というのがあるらしい。
空腹と疲労で全然気がつかなかった。
途中、道の駅があったけれど道を渡って更に奥まで行かないと駄目そうだったので先を急いだ。
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八坂インターチェンジを越して250号線に入りしばらくしてまた一号へ途中塩井川原なる場所があるが、弥二北が猿市犬市を騙そうとした塩井川なのかな。

福天大権現の参道標、一里塚
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火の見櫓だ(・∀・)
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一号線と合流したり離れたり。
座って食べるんだとか思っていたのに最終的には空腹に耐えかねてコンビニで買ったパンとおにぎりを食べた。

本村橋?から左の道へ入る

逆川の鳥、岩橋
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秋葉山常夜灯
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大頭龍大権現
平岩佐平隠居之地
誰だろう?ぐぐってもヒットしない。

伊藤嵐牛門人とある。伊藤嵐牛でぐぐるとヒットする。

伊藤嵐牛は、寛政10年(1978)に掛川市八坂に生まれた。幕末から明治にかけて活躍した俳人で、松尾芭蕉の流れを汲む鶴田卓池に入門した。また、和歌国学を石川依平から学んだ。
浜松から静岡までに、約300人の門人を養成し、門人の一人に松島十湖がいた。その生家は、嵐牛蔵美術館として開放(事前予約が必要)されている。

門人は300人居たということなので、その中の一人なのか。ということはどうでもよくて、
なんで植田まさしのカリアゲくんの絵が…こいつは一体( ;・´ω・`)ゴクリッ

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真新しい常夜灯。逆川にかかる馬喰橋を渡る。この辺から掛川宿側か
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23.島田宿

23.島田宿(2007.11中旬)の続き
最寄り駅はJR島田駅。

7:40くらいに出立。大井神社、ご当地キティ御大。
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やはりこの時間は通勤通学ラッシュに遭遇してしまう。若さがまぶしい。
老いてまぶしきはただ頭頂部ばかりのみよのぅ…("・ω・゙)

34号線をしばらく進み東海パルプの前辺りで左の道へ
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何やら急に家並みが変わったと思ったら
島田宿大井川川越遺跡町並という国指定の史跡らしい。
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川越し人足の数は、初め、島田、金谷でそれぞれ350人と決められていましたが、幕末には650人を超えていました。(島田宿大井川 川越遺跡

そんなに居て仕事にあぶれなかったんだろうか?

常夜燈やらなにやら。
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島田大堤(しまだおおつつみ)       
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。
恐らくこの頃(天保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三.六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五.七三三m)と記録されています。
今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。 島田宿史跡保存会

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八重枠稲荷神社
昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。
宝暦十年(一七六〇年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。
社殿は文化九年(一八十二年)と明治三十四年(一九〇一年)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
川石は硬くて加工に手間がかかり、いまでは市内に数ヵ所残るのみの技法です。

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大井川前の川越広場に着く。川べりは風が強く寒い((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
広いなぁ。トイレやらなにやら。
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朝顔の松
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昔、ここに1本も大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘「深雪」が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き「宮城阿曽次郎」という青年と恋仲になります。その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流して歩いていると、ある座敷から声がかかります。この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。その時、はじめて目に映ったのが大きな1本の松でした。この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り一メートル五十六センチ・高さ二十メートル)でしたが惜しくも昭和十年に枯
                                平成16年3月再築
れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。書かれている題辞は「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」(フウショウヒサシクホウスシュンガノキョクコズイナオトトムゴゼノタマシイ)で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。この物語「朝顔日記」は、江戸後期(一八一一年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。島田市

なん一昔前の少女漫画か昼のメロドラマみたいだ(w
やっぱり昔から人はすれちがい展開が好きなんだな。


東海道中膝栗毛では弥次が侍に化けて安く川を越そうとして失敗している。
あわやという時に狂歌を詠んで双方大笑いになって逃げ出すってどんなコントだ(w

東海道とは関係ないんだろうけれど、島田駅南東部にある蓬莱橋は
ギネス認定の「世界一の長さを誇る木造歩道橋」なのか(・∀・)


川越人足もいないので右折して大井川歩道橋へ。
長かった。1km弱ぐらいあったかな?
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川を渡り旧東海道の道標に従って左折し200mほど歩いて右折。
越すに越されぬ大井川を越したら、もう金屋宿側か
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24.金谷宿(2007.11中旬)
最寄駅はJR金谷駅。
新堀川に架かる八軒屋橋を渡る。
地図でみると200mほど南に行ったところに水神社があるな。
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朝食は金谷駅でとればいいやと甘く考え、コンビニにも寄らず、食事もとらず。
大井川鉄道の車両をみてやな予感がしだした(´・ω・`)

大井川鉄道の踏切を越えて228号、大代川に架かる往還橋を渡る。
横にある古いのが大代橋か? 途中に秋葉神社があった。
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道路を横断、道なりに。ヤオハンってまだあったのか。
清水川にかかる清水橋を渡る。清水川起点
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473号線を進んでいく。
佐塚書店横に本陣跡の看板?
柏屋本陣跡なるものもあるのか
のぼり坂の商店街を登って行く。バキュームカーだ、くっさーヽ(`Д´)ノ
岩淵辺りで見て以来だ。この辺りも下水配備してないのかな?
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金谷駅手前に一里塚跡。
高架の下を通って金谷駅の裏側に出る。なんもない(´・ω・`) 表側ならなんかあったかも?
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空腹のまま進んでいくと、なんだか長い登り坂。うへぇ
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なんだろうかこの祠?
473号を横断、と石畳茶屋とかいう道案内が(・∀・)!!
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喜び勇んで石畳の坂を登ると、人気がない(´・ω・`)? 
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( ゚Д)
( ゚Д゚)
( ゚Д゚ ) 「休館日」

…ベンチに坐り手持ちのクロレッツをかみしめながら、
金谷の石畳を仰ぎ見る。かなりきつそうな…。
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鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。(中略)
なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗
日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

日本左衛門て誰(´・ω・`)?

日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島 庄兵衛。(中略)
後に日本駄右衛門として歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたために諸説入り乱れているのが現状である。(日本左衛門

序幕で若侍の姿であった菊之助がこの3幕冒頭では娘姿になっており、更に
正体がばれると男に戻って啖呵を切る、というこの変り身の激しさはこの役
を難役にしています。(日本左衛門の処刑(1747)

弁天小僧菊之助てこれが元なのかΣ(゚∀゚;)
パタリロで知ったからマライヒのイメージが強い。
でもこれだと衆道っ気はなさそうだな。やはり衆道は武士階級の嗜みだったんだろうか。
まあ劇中人物だしなぁ。 
なんか他にもページがあった。人物クローズアップ第10回[東海道]


ぜーぜーいいながら登っていくとすべらず地蔵。絵馬を見るとやはり受験のものばかり。
静岡の人ばかりかと思いきや埼玉・神奈川の人とかも来てるようだ。
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更に坂を登って行くと五つ子楠。
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立てかけてあった木の立て札には

五つ子楠
朽ち果てた親木の根を囲んで生える五本の若木。今なお親子の固い絆に結ばれた「五つ子楠」は金谷坂石畳を往来する旅人の無事を祈りつつ成長しています。

とあった。


茶畑、NHK金谷テレビ中継放送所、ガムの自動販売機Σ(゚∀゚;)
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なるほど粘土質で歩きにくかったから石畳を敷いたのか。
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金谷から菊川の石畳を過ぎ、間の宿・菊川までくる。
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特に食事どころっぽい店はない。
なんとか会館も開いてるのかどうかもよくわからないので先に進む。
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一山越えたとほっとするのもつかの間、日坂が待っていた。
すげー登り坂Σ(゚∀゚;) 半端ない。
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22.藤枝宿

22.藤枝宿(2007.11中旬)
最寄駅はガイドブックによればJR藤枝駅、静岡側にバスで戻る。

1号線を横断した後、葉梨川沿いを歩き208号へ。
地図でみるとこの辺りは家具工業団地のようだ。

葉梨川にかかる八幡橋を渡り右折
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お地蔵さん、道標、秋葉神社
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バスはほとんど来ないのか
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須賀神社のクス。でかい。
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ルート上にすきやや7-11を発見。
空腹ではあったが「またすきやか(´・ω・`)」「また7-11か(´・ω・`)」と思い、スルー。
バーミヤンも向いにあり、一瞬そちらの方に行きかけたが、ルートと違ったので引き返した。

工事の関係で回り道。1号がなんか渡りにくかった記憶。
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卵の自動販売機があるなんてΣ(゚∀゚;)
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商店街を進んでいくと大きく「成田山」という文字が。
千葉のと関係はないのかなと思ってぐぐったら、

●千葉県成田市の「大本山成田山新勝寺」の直末寺院
成田山不動明王のご分霊をおまつりする当山は、志太地域はもとより、県内外から多くの参詣者で賑わいます。一年を通じて、お車の交通安全祈願をはじめ、家内安全・商売繁昌・開運厄除・安産・合格などの請願成就をご祈念いたします。(藤枝成田山

とあった。分院なのか。
成田山新勝寺の起源が平将門の乱絡みだとは知らなかった(´・ω・`)

布袋和尚、腹の辺りに親近感を覚える。
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商店街がつづく。さわやか通りの途中で、東海堂というお店でとろろそば700円。
おばーさん二人で切盛りしてるのかな?にしては内装がちょっと凝ってるような。
おいしゅうございました(・∀・)
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足の疲れも多少とれ、腹も膨らみややおねむ(´-ω・`)
ゆったりまったり歩を進め。


大黒天、長楽寺商店街?
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長楽寺の起源は

 駿河国、益頭郡長楽寺村の言い伝えによれば、はるか昔の仁安年間ごろ、この里に粉川長楽斎という郷士がいた。妻は伊勢神戸の住人 神戸蔵人某の娘であった。 祖先より代々豊かに暮らし、夫婦ともども仏法に深く帰依していたので、世の人は粉川長者と呼び、また仏心長者とも称した。
 長楽斎夫妻には、賀姫という女子があった。齢十六、まことに美しい面立ちで、父母の寵愛を一身に受けていた。 賀姫もまた仏を深く信仰し、父が近くの山の麓に安置した薬師仏に毎朝詣でることが、もう何年もの習いであった。

 里の東の山を越えたところに、真池という周囲一里ばかりの池があって、池中には大蛇が棲んでいた。 その大蛇が美少年に化して、薬師仏に通うようになった。日を重ねてとうとう賀姫と深い仲になり、姫を誘って池に引き入れた。
 父母が限りなく悲しみ嘆いたのは言うまでもない。
 長楽斎は怒りに堪えず、砂石を焼いて炎火となし、鋼鉄を溶かして灼熱の湯とし、これでもか、これでもか、とばかりに池に投げ込んだ。 大蛇に逃れるすべはなかった。沸騰する池水の中で焼け爛れて死んだ。長楽斎は亡き賀姫の冥福を祈るために、おのれの屋敷を寺院とし、かの薬師仏とともに阿弥陀仏を本尊としてまつった。今の青龍山長楽寺がそれである。(略)(大蛇を殺した長者

という話らしい。ガイドブックだと青島池の竜となっている。
まあかつての民話における竜と大蛇はそう大差ないからなあ。

しかしこの話、考えてみると全然仏教らしくないな(w
何か違う民話を無理矢理変えたか混ぜた感じだ。


道なりにひたすら進んで瀬戸川にかかる勝草橋を渡る。
川幅は広いけどあんまり水量はないのか。田沼意次絡みの田沼街道の起点らしい。
地図で見ると藤枝駅の南側に田沼という地名があるが、関係あるのかないのかは不明。
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一里塚跡、為善館
道の向こう側だったので渡らず。

看板の説明文によると寺子屋の学校化したものらしい。
水害で流出してしまって今では正確な位置が不明とのこと。
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五叉路を越して道なりに。途中に西友があった…かな?
356号を横断して鏡池堂六地蔵尊のところで222号に合流。

看板によれば神龍が棲んでいる鏡ヶ池から六地蔵尊が出現したから
鏡池堂六地蔵尊と称するとあるけれど、

鏡ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺二世静照上人が修法で退治し、その際鏡池堂が建てられた。六地蔵尊は智証大師の作とされ、高さ30cmほどで金色に彩色された木仏であるという。(藤枝宿

と書いている人もいる。ソースが何か分からないものの、おそらくそういう説もあるのだろう。

この手の話はどちらが本当かという性質のものではないのでどーでもいいが、
多分、古き信仰(龍)が新しき信仰(仏教)に制圧される話も六地蔵尊出現も
後付けなんだろうなあ。

ただ周辺の人間にとって重要な鏡ヶ池と呼ばれる池が存在していたのだろうけれど。
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東海道追分

こヽには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。当時、東海道はこの碑の所から、東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五又路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も、主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。
平成十年五月 青島史跡保存会

この看板ではこの一帯に池や湿地が多かったとあるが、おそらく岡部宿以南から
この藤枝宿全域で池沼湿地が多かったのだと思う。昔の地形はわからないが、
朝比奈川・葉梨川・瀬戸川・大井川とこの地を流れる大小複数の川、為善館の水害流出、
鏡ヶ池や長楽寺の池と大蛇(龍)の話などを併せて考えるとおそらくそうであろう。

静岡県市町村災害史 藤枝市などを見ると1980年代までは台風による堤防決壊なども発生しており、
その昔はもっと水害が多かったであろうと考えられるが、水神社らしきものが見当たらない。
ぐぐってみると藤枝駅南西2km辺りにある八幡宮内に水神社はあるらしい。
しかし昔の人間の領域感覚?から言うとかなり離れている。
なんか他に水属性の神社があるのかなとぐぐってみると

飽波神社は仁徳天皇6年の創建と伝えられる志太平野最古の社です。藤枝市内を流れる瀬戸川の水害から人々を守る神様としてうやまわれ、湧波(わくなみ)神社、川関(かわせぎ)神社とも呼ばれていました。(飽波神社

社伝によると、
仁徳天皇六年(316)の創祀。
飽波郷に鎮座していることから、飽波神社と称し、式内社・飽波神社に比定されている古社。
飽波の地名は、瀬戸川の伏流水が泉として沸く「沸波」によるものだとする説がある。
当社の伝承として、病気に霊験のある泉の話がある。古来、川関大明神とも称されており、
この社の土をいただくと洪水を免れるという信仰があった。(飽波神社

と「あくなみさん」と親しまれている神社があった。

話が関係ないほうに脱線しすぎた…orz

追分やらなにやら。
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卵自動販売機はいちごも売ってたりするのか。
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千貫堤

市指定文化財 千貫堤
寛永十二(一六三五)年田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約三百六十米にわたり、高さ三.六米、巾二十九米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。
昭和三十一年一月二十一日指 藤枝市教育委員会

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田中藩領傍示石蹟やら松並木らしきもの
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東光寺谷川にかかる瀬戸橋を渡る。やがて一号と合流。
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一里塚跡…跡形もない…(´・ω・`)
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この辺りから島田宿側かな?
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23.島田宿(2007.11中旬)
最寄り駅はJR島田駅。

島田市に突入。
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六合駅辺りで右の細い道へ入るも、すぐに1号に再合流。
六合駅南側の地名は道悦( ・´ω・`)

( ・∀・)っ~~~---------→手鎖御免

伊太谷川にかかる栃山橋を渡る。鳥発見。
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島田はほとんど街道。駅まで近いのかとおもたらかなり遠かった。


監物川と監物橋
寛永十二(一六三五)年、島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下に入りました。志太郡一帯を支配するこになった(原文ママ)監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れました。感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだものと思われます。 島田宿史跡保存会

またしても監物さん登場。
考えてみると近くに川や池沼があっても水を引っ張ってこれなければ意味がないんだな。
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 駿河国(するがのくに)の農地面積の推移をみると、室町時代の9,150町歩に対し、江戸時代中期は26,626町歩と、三倍近い増加を見せています(※)。江戸時代は、全国各地で新田開発が進んだ時期であり、大井川平野が位置する駿河国でも大きく開墾が進んだことが分かります。
 この時代の新田開発は、土地条件が厳しく、それまであまり手の付けられなかったところ、つまり大河川下流の洪水地帯や湖や海の干拓などが主な対象でした。洪水常襲地帯の大井川平野も無論、条件の厳しい土地。駿河国で開墾された新田のうち、大井川平野が多くを占めたことは間違いのないところでしょう。
 大幅な新田開発を進めるため、大井川には江戸時代を通して、数多くの水門や取水口が築かれ、用水路が引かれます。代表的なものでは、田中藩主・水野監物忠善(みずのけんもつただよし)が開削した「監物川」(1604年)、島田三代目代官・長谷川籐兵衛が完成させた「向谷用水」(1645年)があります。
3.新田開発とため池【「農」と歴史】

「大井川の賜物」を授かる為にも色んな苦労があったようで(´・ω・`)


島田は刀鍛治の町だったのか。
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問屋場、枡形跡
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17:00辺りで断念。本当は金谷まで行って電車で戻ってくるつもりであったが、
大井川を見ないのもつまらないのでホテルへ。
島田ホテル4980円 ティーパックx3 まぁまぁ良かった。ここは前日に調べておいたんだったかな?
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この日もバスタブでうたた寝。自分のいびきで起きる。
島田駅前は特に何もなし。居酒屋が多かった。
あとは服の店と和菓子の店・甘味処が多かったような。
そういえば静岡近くに多かった布団屋はいつからか余り見ない。

中国料理屋さんで麻婆豆腐定食 700円。
孫らしき幼女x2がお店やさんごっこらしきことをしている。
多少うるさきもあり微笑ましきもあり。
味はまぁ…なんというか…700円ですし、えーと普通ということで(・∀・)
サラダもスープもついてたし。

入った時に居た祖母と孫らしき二人のテーブルの上には何皿もの料理がΣ(゚∀゚;)
灰色の青春時代を送った脳細胞の俺が
祖母か少年のどちらかが大食い、或はその両方に違いあるまいと名推理( ・´ω・`)!!

…帰る時にパックに詰めてもらってました(´・ω・`)

その後もお客さん一人、中年夫婦一組と、そこそこお客さんは来てました。


ホテルに戻りコインランドリー。
10円玉オンリーの洗剤販売機というあこぎな価格設定ヽ(`Д´)ノ
10円玉1枚しかなく致し方なくコーラゼロを買って調達。
下まで行って両替という手もあるが、それが面倒くさいので。
200円入れて洗濯開始。ソフト剤はないのか。
清水ホテルのは洗剤も柔軟剤も込みで200円だったのに…(´・ω・`)
でもこっちの乾燥機は30分100円か。でも柔軟剤入れてないとどうかなぁ…。

結局300円分払わないとうまくかわかなかった。・゚・(ノД`)・゚・。
よくよく考えてみると清水ホテルの30分300円のやつはガス乾燥機だったから火力が違ったんだな。

約25km

307-25=282km

品目 金額 備考
バス代 340
とろろそば 700
麻婆豆腐定食 700
150
ビール 250
ビール 350
柿の種 200
島田ホテル 4980
洗濯乾燥 530
コーラゼロ 120
累積使用金額 54,475円 残り: 282km

カラスの早起き、スズメの寝坊 / 柴田敏隆

著者は横須賀市博物館学芸員、(財)山階鳥類研究所資料室長を勤めた柴田敏隆氏。
肩書きはコンサーベイショニスト(自然保護に、話のわかるプロとして携わる人、の意)。
コンサーベイショニスト、柴田敏隆先生の文化鳥類学

単純に鳥の説明に終始するような内容ではなく、さまざまな分野と
鳥を絡めた楽しく読めるエッセイでした。
自然保護を強調している部分も多々ありますが、盲目的自然原理主義的な
薄っぺらい主張とは異なるので、余り気にはならないと思います。

寺田寅彦の「とんびと油揚」について触れた「鵜の目鷹の目」、
思春期の自己愛とその行動について理解を示しているとも言える「ツッパリの原点」、
現代日本の自然史的常識の欠如を憂う「卵歯」「フクロウの足」、
そのほか、「一富士二鷹」「リンの運び戻し屋」「海水を飲んではいけない?」など、
興味深い話が多数収録されてました。