『捨てがたき人々』を観た

捨てがたき人々

金も仕事もなくセックスのことばかり考えている狸穴勇介(大森南朋)が、苦悩しながら生きる意義、愛や幸せを見つけ出そうともがく姿を通して、人間の業を描き出していく。生きることに飽きてしまった勇介は故郷へ戻り、そこで顔にあざのある女性・岡辺京子(三輪ひとみ)と出会う。快楽を求める勇介は京子と関係をもち、そのままなし崩し的に同棲を始めるが……。

“苦しんで、喘いで、それでも生きていく―。鬼才・ジョージ秋山原作、人間の欲と深い業を描く問題作。”みたいなキャッチコピーがついてるみたいだけど、
そんなもん描けてるのか、これ(´・ω・`)?

三輪ひとみの濡れ場は濃かったけど、内容は薄いというか浅いような(´・ω・`)


人間なんて所詮は本能の動物、私欲の生物というのはちょっと生きていれば判ることではあるが、実際には人間を動かす部分は更に下または上にある一層であって、必ずしも人間は判りやすい食欲や性欲という本能レベルで支配されて動く訳ではない。故にそれが独善的狂的であるにせよ、また本当に正しいかそうではないかはともかくも、完全なる清廉潔白な”正しき人”というのは存在する。この作品では作為的に微妙な聖人的キャラ(言うほど聖人的ではないがw)を用いて浅層で人間を語っているので、観ていて白けてしまう。人間という生き物への考察の浅さや結論有りきの拙さを拭いされない。

愛されずに育った人間が、愛とは何かということを考えず、何故に苦しいのかを追求せず、ただ自堕落に生きて「苦しい、苦しい」と喘いでいても、「そりゃそうだろ(´・ω・`)」ってだけで何の共感も出来ない。

『罪と罰』を読んだことがなく、おおまかな知識しかないので、京子の行動はあんまりよく判らないw
勇介を許し人間的に愛すという体を取ることによって自らの居場所と価値を得ようとしたのかなぁと思わなくもないけど、どうなんだろう。女としては愛してはなかったみたいな感じにも思えたが。


三輪ひとみは昔、もっと小顔だったような気がしたけど、なんか凄く骨格が成長したというか頬骨が目立つようになっていて、少し残念でした(´・ω・`) 
でもおっぱいは相変わらず大きかった(*´・ω・)o彡゜おっぱい!おっぱい!
脚とか腰つきも良かったよ(`・ω・´)
最初の辺りの絡みの無理矢理感は好きな人にはたまらないだろう(*´・ω・) レイプハハンザイデス

五島列島の方言がどういうものなのか判らないので三輪ひとみの方言が上手かったのか下手だったのか不明。五島列島の物かどうかはともかく、イントネーション的な部分において違和感はなかった。ただなんか発声が頑張りすぎというか、作品内での他の登場人物達とトーンというか演技がちょっと違うような気がした。なんか舞台演技みたいだった。

内田慈と田口トモロヲの濡れ場は女性の騎乗位で上手く隠せないのか、下半身全体がぼやかされていたなw
濡れ場というほどのものでもなかったが美保純のそういったシーンは誰得なんだろうか…(ヽ’ω`)
あと京子の母親役の人の濡れ場もな…(ヽ’ω`) ナマエガワカランガ

佐藤蛾次郎はあのシーンだけだったか。
寺島進って何処で出てたっけ?
滝藤賢一が出て来たのバイプレーヤーズを思い出したw


ジョージ秋山の原作を試し読みでちょっと読んだけれども、なんか違うな。
監督である榊英雄の出身だからか舞台をわざわざ五島列島にしたみたいだけれども、あんまり意味があったとは思えない。

京子が痣ありのキャラになったのは判らんでもない。原作の不細工な京子をそのまま実写化しても画的に映えないから、普通の人を起用して痣という瑕疵と考えられる物を付与することによってバランスを取ったんだろう。

でもだとしたら狸穴勇介ももう少し不細工というか瑕疵を与える必要があったんじゃないかねぇ…(´・ω・`)
大森南朋の顔は別に良いとは思えないが不細工というには無理がある普通レベルの顔。そういやこの弁当屋の同僚の子って誰だろう。

ここがおかしいから、後の正義の台詞が余り響いて来ないような気がする。関係ないけど正義役の子はもうちょい演技が出来る子を起用した方が良かったんじゃないかなぁ。


何はともあれ、三輪ひとみのおっぱいが拝めるよ(・∀・)
計三回くらいかな。最後の方のは着衣だけど。

原作を読んでみようかなぁ(´・ω・`)