23.島田宿

23.島田宿(2007.11中旬)の続き
最寄り駅はJR島田駅。

7:40くらいに出立。大井神社、ご当地キティ御大。
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やはりこの時間は通勤通学ラッシュに遭遇してしまう。若さがまぶしい。
老いてまぶしきはただ頭頂部ばかりのみよのぅ…(“・ω・゙)

34号線をしばらく進み東海パルプの前辺りで左の道へ
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何やら急に家並みが変わったと思ったら
島田宿大井川川越遺跡町並という国指定の史跡らしい。
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川越し人足の数は、初め、島田、金谷でそれぞれ350人と決められていましたが、幕末には650人を超えていました。(島田宿大井川 川越遺跡

そんなに居て仕事にあぶれなかったんだろうか?

常夜燈やらなにやら。
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島田大堤(しまだおおつつみ)       
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。
恐らくこの頃(天保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三.六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五.七三三m)と記録されています。
今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。 島田宿史跡保存会

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八重枠稲荷神社
昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。
宝暦十年(一七六〇年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。
社殿は文化九年(一八十二年)と明治三十四年(一九〇一年)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
川石は硬くて加工に手間がかかり、いまでは市内に数ヵ所残るのみの技法です。

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大井川前の川越広場に着く。川べりは風が強く寒い((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
広いなぁ。トイレやらなにやら。
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朝顔の松
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昔、ここに1本も大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘「深雪」が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き「宮城阿曽次郎」という青年と恋仲になります。その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流して歩いていると、ある座敷から声がかかります。この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。その時、はじめて目に映ったのが大きな1本の松でした。この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り一メートル五十六センチ・高さ二十メートル)でしたが惜しくも昭和十年に枯
                                平成16年3月再築
れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。書かれている題辞は「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」(フウショウヒサシクホウスシュンガノキョクコズイナオトトムゴゼノタマシイ)で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。この物語「朝顔日記」は、江戸後期(一八一一年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。島田市

なん一昔前の少女漫画か昼のメロドラマみたいだ(w
やっぱり昔から人はすれちがい展開が好きなんだな。


東海道中膝栗毛では弥次が侍に化けて安く川を越そうとして失敗している。
あわやという時に狂歌を詠んで双方大笑いになって逃げ出すってどんなコントだ(w

東海道とは関係ないんだろうけれど、島田駅南東部にある蓬莱橋は
ギネス認定の「世界一の長さを誇る木造歩道橋」なのか(・∀・)


川越人足もいないので右折して大井川歩道橋へ。
長かった。1km弱ぐらいあったかな?
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川を渡り旧東海道の道標に従って左折し200mほど歩いて右折。
越すに越されぬ大井川を越したら、もう金屋宿側か
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24.金谷宿(2007.11中旬)
最寄駅はJR金谷駅。
新堀川に架かる八軒屋橋を渡る。
地図でみると200mほど南に行ったところに水神社があるな。
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朝食は金谷駅でとればいいやと甘く考え、コンビニにも寄らず、食事もとらず。
大井川鉄道の車両をみてやな予感がしだした(´・ω・`)

大井川鉄道の踏切を越えて228号、大代川に架かる往還橋を渡る。
横にある古いのが大代橋か? 途中に秋葉神社があった。
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道路を横断、道なりに。ヤオハンってまだあったのか。
清水川にかかる清水橋を渡る。清水川起点
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473号線を進んでいく。
佐塚書店横に本陣跡の看板?
柏屋本陣跡なるものもあるのか
のぼり坂の商店街を登って行く。バキュームカーだ、くっさーヽ(`Д´)ノ
岩淵辺りで見て以来だ。この辺りも下水配備してないのかな?
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金谷駅手前に一里塚跡。
高架の下を通って金谷駅の裏側に出る。なんもない(´・ω・`) 表側ならなんかあったかも?
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空腹のまま進んでいくと、なんだか長い登り坂。うへぇ
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なんだろうかこの祠?
473号を横断、と石畳茶屋とかいう道案内が(・∀・)!!
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喜び勇んで石畳の坂を登ると、人気がない(´・ω・`)? 
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( ゚Д)
( ゚Д゚)
( ゚Д゚ ) 「休館日」

…ベンチに坐り手持ちのクロレッツをかみしめながら、
金谷の石畳を仰ぎ見る。かなりきつそうな…。
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鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。(中略)
なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗
日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

日本左衛門て誰(´・ω・`)?

日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) – 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島 庄兵衛。(中略)
後に日本駄右衛門として歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたために諸説入り乱れているのが現状である。(日本左衛門

序幕で若侍の姿であった菊之助がこの3幕冒頭では娘姿になっており、更に
正体がばれると男に戻って啖呵を切る、というこの変り身の激しさはこの役
を難役にしています。(日本左衛門の処刑(1747)

弁天小僧菊之助てこれが元なのかΣ(゚∀゚;)
パタリロで知ったからマライヒのイメージが強い。
でもこれだと衆道っ気はなさそうだな。やはり衆道は武士階級の嗜みだったんだろうか。
まあ劇中人物だしなぁ。 
なんか他にもページがあった。人物クローズアップ第10回[東海道]


ぜーぜーいいながら登っていくとすべらず地蔵。絵馬を見るとやはり受験のものばかり。
静岡の人ばかりかと思いきや埼玉・神奈川の人とかも来てるようだ。
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更に坂を登って行くと五つ子楠。
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立てかけてあった木の立て札には

五つ子楠
朽ち果てた親木の根を囲んで生える五本の若木。今なお親子の固い絆に結ばれた「五つ子楠」は金谷坂石畳を往来する旅人の無事を祈りつつ成長しています。

とあった。


茶畑、NHK金谷テレビ中継放送所、ガムの自動販売機Σ(゚∀゚;)
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なるほど粘土質で歩きにくかったから石畳を敷いたのか。
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金谷から菊川の石畳を過ぎ、間の宿・菊川までくる。
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特に食事どころっぽい店はない。
なんとか会館も開いてるのかどうかもよくわからないので先に進む。
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一山越えたとほっとするのもつかの間、日坂が待っていた。
すげー登り坂Σ(゚∀゚;) 半端ない。
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