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友と友の間



第一章





 雄吉が、京都の文化大学えて、三年間遠退とおのいていた東京とうきょうへ出て、一高いちこう時代の旧友きゅうゆう――ごくしたしい友達ともだちで、創作そうさくという同じ道に志している人達の間に、自分じぶんを置いた時、一番いちばんに驚いた事は、彼等かれらが――並河久野杉村川瀬も、みんな一斉いっせい小説家しょうせつか松本藻石にかなり深い程度ていどで、私淑ししゅくしていた事だった。無論むろん、雄吉は彼等のそうした傾向けいこうを、その時初めて気が付いたのではなかった。その前年の秋に、雄吉がちょっと上京じょうきょうした時にも、彼等の間の松本さんに対する傾倒けいとうが、日に増し進んで来るのを感ずる事が出来た。その時だった、雄吉が久野を訪問ほうもんすると久野は松本さんにもらった『社会と私』という本を雄吉に見せながら、
「この間、松本先生せんせいの所へ行ったんだよ。皆、本をもらっていたから、俺ももらったんだ。並河の奴ももらったよ。小島や草野なんていう先輩せんぱいも来ていたよ。ああそうそう、山岸宗平も来ていたよ。あいつなんか、先生をつかまえてどんどん議論ぎろんをしているのだよ。まあ先生との親密しんみつを俺達に見せびらかすつもりか知らないが、遠慮えんりょなく議論しているのだよ。少し厭迫えんはくせられたね。あのくらい自由じゆうに話せたらいいね」と言った。
 そんな話を、久野がしていた頃から、半年経つか経たぬうちに、並河や久野の松本さんに対する親密さは、目に見えて進んでいるらしかった。こと、その年の二月に雄吉の連中れんちゅうが皆で出していた同人誌どうじんし×××に載った並河の「」を、松本さんが激称げきしょうして以来いらいは、並河や久野は、いつの間にか、藻石門下もんかに成り済ましていたのだった。
 雄吉が、松本藻石の事を、松本さんとか藻石とか言って話しているのに対し、並河や久野などは、いつも「先生がこう言った」とか「先生がこうした」などと話していた。どちらかと言えば無感激かんげきで無理想りそうで、手近てぢか権威けんいは何一つ、心から認めなかった久野や並河などの偶像破壊ぐうぞうはかい者が、松本藻石に接近せっきんしてからは、急にいくらかでもその自尊じそん的な腰を曲げて、文字通りに心から先生扱いにしている事が、雄吉には少しくすぐったく思われた。雄吉は、彼等がどんなに松本さんを先生扱いにしても、そのお相伴しょうばんをして、先生呼ばわりをする事が、どうしても気が引けた。又、もっと本質ほんしつ的な所から言って、雄吉は松本藻石に対し、文壇泰斗たいととして、十分じゅうぶん尊敬そんけいを払っていたけれど、その人の芸術げいじゅつ上の傾向には、まった追随ついずい出来なかっただけに、無条件に私淑する気には、どうしてもなれなかった。
 もう一つ、雄吉に取ってびしかった事は、並河や久野などが、雄吉が京都大学で教わった中田博士――その人は、雄吉の上京と前後して急病で倒れた――の事を、博士の文壇的の功績こうせきや位置を成るべく低く、評価しようとする事だった。彼等はみんな創作万能主義にひたっていた。彼等のひとみには、外国がいこく文学ぶんがく研究けんきゅうだとか、翻訳ほんやくだとか、紹介しょうかいだとか、その色々いろいろな文学的雑業ざつぎょうは、三文さんもんの価値もないようだった。従って、創作にはほとんど筆をらなかった中田博士の位置が、彼等に低く、評価されるのも当然とうぜんだった。



 並河や久野は、よく中田博士と松本さんと比較ひかくした。そして、時々ときどき、こんな事を言った。
「中田さんなんて、ただ物 識インフォメーションだけの人じゃないかね」
「君達は、今でこそ、そんな事を言っているが、それでも中田さんの『みをつくし﹅﹅﹅﹅﹅』や『海鳥賦』などの影響を、受けた時代があるだろう」と、雄吉がやり返すと、
「あああるね。が、あんなものは文学入門だよ。僕は中田さんなんか、とっく卒業そつぎょうしてしまったね。中田さんは、我々にとって、まあ小学校位だね」と、彼等の一人が言った。
「じゃ松本さんは何だい」と、雄吉が訊き返すと、
「そりやかくが違うさ。大学――とは行かなくっても、少なくとも高等学校位の格だね」
 こうした会話かいわが、又それに似た会話が、雄吉と、並河や久野との間に、度々たびたび繰り返された。三年間別れている間に、お互いの本質的な傾向の間に、目に見えない間隙かんげきが、何時いつにか、雄吉と彼との間に出来ていたのも事実じじつだった。
 雄吉が、松本藻石に対して、余り傾倒し得なかった他の一つの理由りゆうは、雄吉自身がその頃戯曲ぎきょくばかりを、書いていた為でもあった。その為に、戯曲に対しては、ほとんど何の興味きょうみをも持っていなかったらしい松本さんに、芸術的には何の因縁いんねんをも感じない為でもあった。
「先生はあれで、×××に出る我々の作品さくひんは皆読んでくれているのだよ。恐らく先生位、新進作家ヤンガーゼネレーションの物を、注意ちゅういして読んでいる人はあるまいね。僕達の作品なんか、一々いちいち丁寧ていねい批評ひひょうをしてくれるんだ」
 こう久野は、度々雄吉に語ったが、僕達の作品と言っても、雄吉の作品だけは、元より例外れいがいであるらしかった。縦令よしんば、例外でないにしても、久野が雄吉に取次とりつぎがない所を見ると、好意こうい的な批評でないことは、明らかだった。雄吉は、久野などのそうした言葉を聞く度に自分が松本さんに近づいて行く何のいとぐちもないことを淋しく思った。が、何の緒も機縁きえんもないのに、無理むりやりにでも、近づいて行こうという程の熱心ねっしんさも持っていなかった。
 すると、その月の雄吉達の同人雑誌ざっし×××が、発行はっこうされてから、間もない事だった。雄吉が、久野を訪ねると、久野は話のついでに想い出したように、
「ああ、この間松本先生の金曜会きんようかいに行ったがね。僕の今度こんど脚本きゃくほんが先生には、馬鹿に評判が悪いんだ。君の「海の勇者」の方が、短いことは短いが、あれはあれでよくまとまっていると、先生がいうんだ。ちょっと悲観ひかんしたよ。」と、久野は本当に悄気しょげような顔をした。
 その月の×××には、並河や川瀬や杉野が卒業試験しけんのために、忙しかったので、久野の「杏の花」と雄吉の「海の勇者」という二つの脚本が載っているだけだったのだ。
 雄吉には、自分の脚本が、久野のそれに比して、どうあろうと、そんな事は問題もんだいではなかった。ただ、松本さんが自分の脚本を読んでくれていること、しかもそれを、低い程度ではあるかも知れないにしろ、とにかく積極せっきょくに認めてくれている事が、何よりも嬉しかった。



 松本藻石が、とにかく雄吉の作品に、ある程度の好評こうひょうを、投げてくれたという事を、聞くにつけても、雄吉は彼が三年の間、京都の大学で、講義こうぎを聴いていた中田博士の事が思い出された。
 師弟していという言葉を、非常ひじょう広義こうぎ解釈かいしゃくすれば、中田博士は雄吉にとって、師であるに相違そういなかった。雄吉は自分の創作が、同人雑誌の×××にる度に、第一番にされたいというのが、その頃の雄吉の野心やしん重要じゅうような一部分であった。が、毎号々々欠かさず×××を最先さいさきに博士の手許てもとに送っても、博士からはただ一言の批評さえも、受ける事が出来なかった。
 作品がよく出来ているとか、出来ていないとかいうような批評を、受けられないのは元よりの事だった。
「君の作品を読みました」とか、「君は創作をやっているのですね」と言ったような世間せけん並の、単なる交際こうさい上の挨拶あいさつをさえ、受ける事が出来なかった。が、中田博士のこうした冷淡――無関心は、博士が雄吉に対して特別とくべつ悪意あくいを持っている為でもなければ又その薄っぺらな枚数まいすうの雑誌を読む努力どりょくを、博士が惜しんでいる為でもなかった。ただ博士が高踏こうとうしていた文芸上の道と、雄吉がじ登ろうとしていた道とが、とてつもない﹅﹅﹅﹅﹅程に、喰い違っていたからであったのだ。
 が、雄吉は博士から、少しも認 知リコグニションを得られない理由が、そういう根本的な所に存しているだけに、尚更なおさら淋しかった。学校制度という単なる形式けいしきの下に於いて、師弟ではあるにしても、かりそめにも師と呼んでいる以上、雄吉は中田博士から何等なんらの点で認められることを欲していた。それは、飢渴きかつるいしていた程、はげしい要求ようきゅうだった。が、雄吉のそうした渴望かつぼうは、博士の急激きゅうげきな死に依って、永久とこしえに充たされないままに残ってしまった。
 それを、考えると雄吉は、松本さんが、縦令間接かんせつではあるにしても、自分の作品に一顧いっこを与えてくれたことを、嬉しく思わずにはいられなかった。雄吉は、初めて松本さんに逢って見ようという心持こころもになった。自分の作品を少しでも、賞めてくれたことに依って、松本さんと自分の間に何等かの機縁が開かれたように、雄吉には思われた。それはかなり自己本位的イゴセンツリツクな考え方ではあったけれども。
「僕も、一遍いっぺん松本さんの所へ行って見ようかしら」と、雄吉は、賞めてくれたから逢いに行こうというような現金な心持ちを、久野に見透みすかされ見透かされないように、何気なにげないように言ってみた。



それは八月に入ってから、最初さいしょの金曜の夜だった。雄吉は並河と久野と、もう洋行ようこうする事になっていた川瀬との四人で、初めて松本藻石を訪問した。雄吉と川瀬とは松本さんに対して初対面しょたいめんだった。どちらかと言えば、人見知ひとみしをする雄吉は、未知の自分よりははる上手うわてにいる人に逢う前の、ある重苦おもくるしい不安ふあんを感ぜずにはいられなかった。
 四人は、江戸川の終点しゅうてん電車でんしゃててから、露店ろてんカンテラの灯が、華やかに続いている矢来やらいの通りの人波ひとなみの中を、軽い興奮こうふんに似た心持ち感じながら、傍目わきめらずに歩いた。
 やがて、ほの暗い榎町の横町よこちょうれると、久野は先頭せんとうに立って、ツカツカと松本さんの家に入った。
 女中じょちゅうが取次ぎに出て来ると、久野は、
「×××の並河と川瀬と、木村と久野が参りましたと先生に言って下さい」と言った。雄吉は、自分達のささやかな﹅﹅﹅﹅﹅ケチな雑誌の名前を、久野が堂々どうどうと名乗り上げていることが少し気恥きはずかしく思われた。女中はすぐに引き返して来て、
「どうか、お入り下さい」と、言った。
 四人は玄関げんかんから右に折れて、ゾロゾロと松本さんの書斎へ入った。雄吉は、座につく前に、チラリと松本さんを瞥見べっけんした。それは、折々おりおり写真しゃしんで見たような松本さんとは違って、思いのほかに憔悴しょうすいした姿であった。髪には白髪が幾本となく交じっていた。顔には、何処どこともなく、老年の影が満ち渡っていた。松本さんの書く小説の中の潑溂はつらつたる警句や、華やかな人物にばかり、接し馴れていた雄吉は、その作者のそれらの作品とは、遥かにかけはなれた、どちらかと言えば衰えた姿を、いたましく思わずにはいられなかった。
 座には、金曜会の常連じょうれんであり雄吉達に取っては、文壇的な先輩と言ってよい小島だとか、井上などという人達が見えていた。
 雄吉達が、入って行った時、井上という人が、松本さんをつかまえて、冒険世界ぼうけんせかいか何かで読んだらしい、牝のゴリラが、人間と結婚けっこんをした話をしていた。その荒唐無稽こうとうむけいに近い話を、松本さんは「ウム」「ウム」と、合槌あいずちを打ちながら、傾聴けいちょうしていた。
 その話が一転いってんすると、獅子ししとゴリラとどちらが強かろうという事が、一座いちざの問題になっていた。久野が、
「そりや、ゴリラの方が強いでしょう。ゴリラは狩猟しゅりょう者から鉄砲てっぽう取ると、へし折ってしまうそうですからな」と、言いながら、両手りょうてで鉄砲を折る手真似てまねなどをして見せた。
 一座には何等なんらの堅くるしさもなかった。自由な心置きのない、同時にとりとめもない呑気のんきな会話が、湧くように続いていた。雄吉が、京都の中田博士の周囲しゅういで感じたような、いやに身繕みづくろをした、強ばったような、気取ったような雰囲気アトモスフィアは、そこに微塵みじん存在そんざいしていなかった。松本さんには初対面の雄吉も、会話の圏外けんがいにありながら、一座の心持ちに、愉快に同化どうかして行く事が出来た。



「ああ八月号の×××は、大抵たいてい読んだがね」と、松本さんはとりとめもない世間話せけんばなし一通ひととお終わると、ちょっと語気ごきを改めて言い出した。
 一般の文壇からは、まだ「そこにいるか」とも、言葉を掛けてくれなかった並河や久野は、松本さんからの批判が、彼等の創作の目標もくひょうの一つでもあれば、刺激しげきでもあった。
「並河君のものは、今度のものはまず無難な出来栄だね。この前の物に比べれば少しは落ちるがね」と、言ったような率直そっちょくな批評が、並河の作品を劈頭へきとうとして久野のそれ、杉村のそれと段々だんだんに加えられて行った。並河の作家としての力量りきりょうは、松本さんからはもうきわめ付け捺印スタンプを押されていた。久野は、まだ松本さんから十分な認知にんちを得ていなかった。杉村や川瀬を松本さんが、どう思っているかは、雄吉にはわからなかった。同人の作品が一々精細せいさいに、率直に、何等の遠慮もなく批評されて行くのを、聞いていると雄吉の心は不安と期待きたいと、もだもだしたいらいらしさとで、一杯いっぱいになるのを感じた。久野や並河や杉村や川瀬の作品は、松本さんの好きな小説であり、彼等は個人的にも親しくなっているから、あんな直截ちょくせつな批評をしてくれるのだ。自分は松本さんが余り趣味を持たない戯曲を書いている。そのうえ、まだ松本さんに対して少しの馴染みも持っていない。従って、松本さんは自分の作品を読んではいないかも知れない。また読んでいるにしても、初対面という事実に遠慮をして、何等の批評を下さないかも知れないと思った。そう思うと、友達の作品が、およ批評される間に、自分の作品が、松本さんに依って黙殺もくさつされはしないかという淋しさを、ひしひしと感ぜずにはいられなかった。
 松本さんは、杉村や久野の作品の批評に停滞して、雄吉の作品の批評などには、容易よういに及びそうにも見えなかった。
 雄吉は、もうかなり悄気はじめていた。友達の作品がどれもこれも、松本さん――文壇の泰斗と言っても誰も異論を挟まない――松本さんから、親しい批評を受けているのに、同じ×××に載りながら、自分の作品だけが、黙殺されているという事が、堪らないほど淋しかった。
 が、×××に対する松本さんの批評が、もう尽きかけたと思われる頃だった。松本さんは、その鋭い一瞥いちべつを雄吉の方に振り向けたかと思うと、「ああそうそう、君の脚本も読んだよ。ありゃ駄目だめだね。閻魔えんまが人間を喰うなんて、何のつもりであんなものを書いたのかね」と、言いながら松本さんは、ニヤリニヤリ苦笑にがわらのような微笑びしょうを洩らした。
 自分の作品に対する悪評あくひょうなどは、雄吉にとって何でもなかった。初対面の雄吉に対しても、何の腹蔵ふくぞうもなくズバリと突っ込んで来る松本さんの真率しんそつな人間的な温か味を有難ありがた思わずにはいられなかった。彼は又しても、中田博士の事を想い比べずにはいられなかった。中田博士に接していると、真綿まわたに触るるような柔らかい触感しょっかんがあった。が、その真綿は柔らかいながらに、どうしても突き透すことの出来ない堅固けんご城壁じょうへきのようにも感ぜられた。



人力以上シウパアヒューマンの、超自然なシウパアナチュラル力と言ったようなものを書いたつもりです」と、雄吉は口ごもりながら、自分の作品の動機どうきを説明した。
「そりや悪いとは言わないが、全体ぜんたいにもっとそうした空気くうきが出ていなければ駄目だね。あれでは、おしまいに閻魔が、人間を喰うところが、不自然で、嫌なグロテスクな感じだけしか受けられないよ」と、松本さんはゆったりした口調くちょうで言った。
 自分の作品に対する非難ひなんを訊きながら雄吉は松本さんの温情おんじょうを、しみじみと感ぜずにはいられなかった。彼は藻石門下と言ったようなサークルが、松本さんの周囲に、自然に形作られてゆく訳が、ハッキリと判ったように思った。
「八月号の×××で、君が中田君の追悼ついとう録を書いているので、君が京都を出たというのを初めて知ったよ。じゃあ、君は、中田君に教わったという訳だね」と、しばらしてから松本さんは、雄吉の顔をまじまじ﹅﹅﹅﹅と見ながら言った。
「はあ、そうです。僕が中田さんの最後の生徒です、僕達が卒業するとすぐ死なれたのですから」と、雄吉は答えた。彼は、八月号の×××に「中田先生の事」という題で、中田博士の追憶ついおくを、かなり敬虔けいけんな心持ちで書いていたのだ。中田博士の話になると井上という人が口を出して、
「あの人はほんとうに偉かったのでしょうかね」と、無遠慮に松本さんに質問しつもんした。松本さんが、中田博士をどう思っているか、それは雄吉達の興味を十分に喚起かんきし得る問題であった。が、雄吉は、本質的な点では、中田博士に私淑し得なかったにしろ、博士の傾向を、心持ちを、態度たいどを、理解りかいし得たと思っていただけに、ある親しみ﹅﹅﹅﹅を、ある追慕ついぼを、博士に持っていた雄吉は、こうした席上で、博士に少しも同情どうじょうを持っていないらしい人々によって、博士の功績なり人格じんかくなりが、露骨ろこつに評価されるのを聴くのは決して愉快なことではなかった。 松本さんは、暫く考えてから、
「そうだね。ひろく知っていた事は、確かに博く知っていたね。が、その博く渡っているある部分を、押して行くと、それがどれ位深いかは、ちょっと問題だがね」と、言った。
 並河や久野なども、各自に中田さんを貶価へんかするような批評をした。おしまいには、井上という人が、
「中田さんは、崇拝すうはい者と言ったような人を持っていたでしょうか」と、言った。
「そらあるだろう。現に、木村君のような人があるんだもの」こう言いながら、松本さんは雄吉の方をあごで指し示した。
 雄吉は、自分独り、孤立こりつしているような寂しさを感じた。彼は、中田博士に対してへりくだたらぬ沢山たくさんのものを持っていた。が、真に芸術を理解する人としての博士を、本当に芸術を味わい得る人としての博士を、尊敬しない訳には行かなかった。彼は、一座の人々の中田博士に対するいろいろな、貶価的な言葉を聴きながらも、彼は博士が教壇に立って、ベトーブエンベートーヴェンの音楽を説き、ミケロアンゼロミケランジェロの彫刻を説いた時の眸を、忘れることが出来なかった。その眸は、本当に芸術を解する者のみが感ずる悦びに、燃えていた。芸術的法悦ほうえつの尊さを示していた。博士の他のすべては、彼の非難者の言葉通りに、イカサマ物であるかも知れない。が、雄吉の見たこの眸に、嘘や偽りがあろうとは思えなかった。*



 その後、雄吉は一、二度松本さんの金曜会に出席した。が、川瀬が外国へ行ってから間もなく、並河と久野は、一緒いっしょ房州ぼうしゅう海岸かいがん避暑ひしょに行ってしまったし、杉村は杉村で、加賀の郷里きょうり帰省きせいしたので、雄吉独り東京に取り残される事になってしまった。非社交的しゃこうてきひっこみ﹅﹅﹅﹅思案じあんな雄吉は、自分一人で松本さんの家へ押しかけて行くような勇気ゆうきは少しもなかった。
 その上、学校にいる間は、学資がくしという名前で、その実は生活費を他人から補給ほきゅうされていた雄吉は、学校を一旦いったん出たとなると、その日からでもすぐ自分自身を養って行かねばならぬ必要ひつように迫られていた。
 九月に入ってから、彼はようやTという新聞しんぶん社の記者きしゃになることが出来た。記者と言っても、社会部の訪問記者だった。彼は、学校にいる時は英文学を専攻せんこうして、英国の近代劇の研究をしたのだが、記者になってみると、そんな物が毛程けほど役にも立たなかった。自分の学んで来た事と、やっている仕事しごととを比較してみると、時々は自棄じき的な苦笑が湧いて来るのを抑えきれなかった。
 その頃は、丁度ちょうど大隈内閣ないかく瓦解がかいした後で、大命たいめいが寺内伯爵はくしゃくに、下るといううわさが盛んだった。T社に入って間もない雄吉は、通信社や小新聞のいかがわしい﹅﹅﹅﹅﹅外交記者などと一緒に夜遅くまで、麻布のこうがい坂にある寺内さんの門に張番はりばんをして、笄坂をせ上って来る自動車の主が、何人なにびとであるかというような事に気を使ったりした。が、金を一銭を持っていない雄吉にとって、東京にいる為には、どんな仕事にでも満足まんぞくしていなければならなかった。彼は、記者としての仕事に、十分な意義いぎを認め、その方面ほうめんでも、自分の運命うんめいを、けず開いて行こうと思っていた。
 が、新聞社に入った事、普通の探訪記者として、あくせく﹅﹅﹅﹅駆けずり廻っていることが、友人や知己ちきに対しては、何となく気が引けた。彼は、自分自身、自分の職業しょくぎょうを、少しもいやしいとは思っていなかったけれども、その職業に対するきたの世間の偏見へんけん侮蔑ぶべつ……それは多く無理解から起因きいんしていたが――を敢然かんぜんとして、けるほどの自信もなかった。
 何となく肩身かたみが狭かった。その上に、職業の性質せいしつから来る当然の忙しさがあった。それや、これやで彼は、並河や久野や杉村などとも顔を合すことが、疎遠そえんになり勝ちだった。まして、松本さんの金曜会へは、九月、十月、十一月と、彼は一度も顔を出さなかった。
 その間に、並河は華々はなばなしい文壇的な初舞台ドービューをした。新文芸に載った並河の「」は、批評家の間に多少たしょう褒貶ほうへんはあったけれども、その秀抜しゅうばつな力量のは、文壇の視聴しちょうそばだたしめずにはおかなかった。続け様に、「卓布」という彼の作品が、文壇で一番有力ゆうりょく中央ちゅうおう文壇で発表された。彼は文壇を強襲きょうしゅうして占領せんりょうした。並河程の華やかさはなかったけれど、久野が並河に続いて文壇に出た。雄吉は、彼等と個人的な関係では友人であった。が、世間的には、文壇的にはそこに大なる間隙が、出来かかっていたのだ。



 それは、十一月も終わりに近いある晩の事だった。雄吉は、久野と一緒に本郷の通りを歩いていた。彼は、用事ようじがあって、二三日来久野に逢う事を望んでいたのだった。
「実は、昨日きのう君が松本さんの所へ行っていやしないかと思って、電話でんわをかけて見たんだ。昨日は金曜日だったらう」
「居ないと言っただろう。知らないのかい、君は! 先生が五、六日前から病気びょうきで金曜会はお流れになったんだ。電話をかけたのなら、ついでにお見舞みまいを言っておけばいいのに」と、久野は雄吉が、松本さんの病気に対して、冷淡なのを責めるような口調で言った。雄吉も、松本さんが病気であるということは、二、三日前の新聞の文芸消息か何かで、薄々うすうすは知っていたが、電話をかけたついでにお見舞を述べるような親密さを、松本さんに対して感じていないことも事実だった。
 久野は松本さんの病気を、さもさも心配しんぱいしているように、
「大分重いらしいので、心配しているんだ。先生の胃は、年来ねんらい痼疾こしつなのだからね。今先生に死なれると、大変たいへんだからな。」と、久野は感傷的な調子になってしまって「僕達の為にも、日本の文壇の為にも大損失そんしつだからな。先生は、今の日本にかけ替えのない人だからな」と、言った。
 雄吉は、久野の言葉が、含んでいるある程度までの誠実シンセリテイを感ずると共に、ある程度までの詠嘆えいたん的な誇張こちょうをも感じた。松本さんの病気に対する心配を、一人で引受けているような久野の言葉を聴いていると、妙な反感はんかんから雄吉はちょっと合槌を打つ気にはなれなかった。
「損失には違いない。が、かけ替えのない程の大損失だろうか」っと雄吉はあま邪鬼じゃく的な心持ちから妙にこじれたことを言ってしまった。
 久野は、雄吉のこうした言葉を、彼の奉じている大切たいせつな、まも本尊ほんぞんに対する侮辱ぶじょくででもあるかのように、カッとしてしまった。彼は、心の中のどんな小さい感情かんじょう変化へんかをでも、顔に出してしまう男だった。
「大損失だとも。先生が死んで見たまえ。「光と影」のような大作を書くような人が、ほかに一人でもいるだろうか」と、久野はかなり興奮していた。
 久野や並河は、松本さんの「光と影」を、嘖々さくさくとしてめたたえていた。雄吉も、その作品に現れている技巧ぎこうの上の大手腕しゅわんには、敬意けいいを払わずにはいられなかったが、しかしその小説の中に描かれている世界せかいは、本質的な点に於いては雄吉と、ほとんど何の交渉もない世界であった。そこには、人間生活のあるそうが、完璧かんぺきと言ってもよい程の描写でアリアリと描き出されてはいたものの、その人間生活は雄吉自身の生活とは、ほとんど何等肝心ヴアイタルな交渉のない世界だった。彼は松本さんの作品に、九分通りまではいて行けた。が、最後の一分のところで、堪能たんのうしきれないある物足らなさを感じた。
 彼は、段々興奮して来るらしい久野との、それ以上の無用むような言い合いを避ける為に、
「そうかなあ」と、煮えきらない返事へんじをした。
「そうだとも」と、久野はいきおよく断定だんていして、昂然こうぜんとその右の肩をそびやかしながら歩いた。



月が換って、十二月に入ってからは、松本さんの病気が、段々険悪けんあくになるようであった。
 久野に逢う度に、雄吉は松本さんの病気の一進一退いっしんいったいを、くわしく聴かされていた。久野は、先生の一大事いちだいじに逢ったとばかりに、懸命けんめいに心配していた。その懸命さには、感傷性セインチメンタリテイから来た誇張が伴わないでもなかったが、雄吉もある程度までは、久野と同じ心配に浸って行くことが出来た。松本藻石――それは雄吉達のような志望しぼうを持っている者にとっては、他の日本人の誰と比べても、一番大切な人に違いなかった。文芸者として、松本藻石が存在している事は、文学に志している者、全体にとっての一つのつよだった、一つのたよだった。殊に、一度でも二度でも、その人に会っている者にとっては、尚更そうであった。
「先生は、昨日内出血ないしゅっけつがあって、一時危なかったんだ」とか、「流動物りゅうどうぶつだけしかれないので、衰弱すいじゃくの方が、だんだん増しているんだ。病気では倒れなくても、衰弱の為に自然に倒れやしないかって、医者いしゃが心配しているよ」などという久野の話を聴く度に、雄吉はいたましいというような気持きもちにならずにはいられなかった。
 が、雄吉は、自分で見舞いに行こうとは思わなかった。余り親しくもない者が、わずか二、三度しか、訪問したことのない者が、取込とりこんでいる処へ、顔を出すことが、何となく不調和ちょうわで、無礼ぶれいのように思われないでもなかった。その上、新聞記者という繁劇はんげきな仕事をしている雄吉には、自分のおもどお処理しょりし得る自由な時間じかんは、ほとんど残されていなかった。
 それは、十二月に入って、一週間も経った頃だった。松本さんが、重体じゅうたいだという噂が、新聞の文芸消息などにも、現われるようになっていた。その日は、雄吉にとって一週一度の公休日こうきゅうびに当っていたので、朝からぼんやりと、下宿げしゅくころんでいた。すると、夕方の五時に近い頃だった。女中が、
「杉村さんから、お電話です」と、言って知らせに来た。その頃、杉村は同人雑誌×××の編集へんしゅうをしていたので大方おおかた雑誌の用だろうと思いながら、雄吉は電話口に出た。
「おい杉村かい。僕だよ」と、雄吉がいうと、杉村は彼に特有とくゆうな重苦しい口調を、更に倍加ばいかしたような口調で、
「木村かい。あのね、松本さんが危篤きとくなんだよ。もう今夜こんや中に駄目だろうという事だ。今、久野の所に電話が、掛かって来たんだよ。僕もこれから行こうかと、思っているんだよ。」
「そうか、うーむ」と、言ったまま雄吉も、かなり劇しい激動げきどうを受けずにいられなかった。
「じゃ、失敬しっけい! 君にちょっと知らしておこうと思ったんで」と、言いながら、杉村は雄吉が、何とも返事をしない中に、電話を切ってしまった。

一〇

 松本さんが、危篤だという杉村からの電話で、雄吉はかなり強い激動を受けたけれども、それと同時に自分の職業に対する意識いしきが、むくむくと動くのを感じた。日本の文壇の泰斗と言ってもよい松本さんが、危篤であるという報知は、新聞社に籍を置いている雄吉にとっては、聞き捨てにならない報知である。彼は、杉村からの電話が切れると同時に、交換手こうかんしゅを呼び出して、いつも呼び馴れている通り「新橋の百七十から七十六まで」と叫んだ。
 まだ入社にゅうしゃして間もない雄吉は、こうした特別な報知を、編集に知らせ得ることを、何となく誇らしく思わないでもなかった。
 雄吉が、やや興奮した心持ちで、握りしめている受話器に、すぐ「ハアハア」と、いう聞き馴れた交換手の女の声がした。
 雄吉は、少し息をはづませながら﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
「編集の江藤さん」と、言った。交換手は、いつの間にか、雄吉の声を知っていた。*
「ああ木村さんなの」と、軽く答えながら、すぐ編集へ繋いでくれた。
「ああもしもし」と、甲高かんだかい性急な江藤さんの声がした。
「僕は、木村ですが、松本さんが危篤なのです。今夜中に駄目だろうという事です」と、電話での話が下手な雄吉は、切口上きりこうじょうで言った。有名ゆうめいな人々の生死を家常茶飯かじょうさはんのように、単なる新聞材料ざいりょうとして、何等の感激もなしに、取り扱う事に馴れた社会部長の職にあったけれども、江藤さんは文学者出身であっただけに、松本さんの危篤だという報知には、かなりおどろいたらしかった。
「ああとうとういけないのですか。今死なせるのはしいですなあ。……」と、江藤さんはちょっと詠嘆的な言葉を洩らしたが、すぐ仕事の方に立ち戻って「貴君あなたは今何処にいるのですか……ああ下宿にですか。こうっと、誰をやったらいいでしょう」と、江藤さんは受話器に手を掛けながら、編集局を一わたり見廻したようであったが、急に言葉を改めて「木村さん、お休みの日に甚だ恐れ入りますが、貴方あなたに一つ行っていただく事は出来ませんでしょうか。貴君は、松本さんのへ行らしった事があるんでしょう」
「ある事はあります」と、雄吉は不精無精ふしょうぶしょうに答えた。
「それなら、是非ぜひ一つお願いしたいのです。文学の解らない人をやっても駄目ですし、お休みの日に大変おどくですが……」と、江藤さんは慇懃いんぎんな言葉を続けた。
 頼まれて見ると、雄吉は嫌だとは言われなかった。仕事本位に考えて見れば、雄吉は適任者に違いなかった。
「それなら、一つ行って見ましょう」と、言わずにはいられなかった。
「それではどうかよろしく」そう言いながら、江藤さんは、電話を切ってしまった。
 雄吉は、かなり当惑とうわくしてしまった。自分が、社に松本さんの危篤を報知する事から、当然こういう仕事を負わされようとは、つい気がつかなかった。彼は、かなり悄気てしまった。少しも気が進まなかった。それは、休みの日に不時ふじの用を、言いつかったという為では、決してなかった。彼は、もっと本質的な点で、この仕事をすることに非常な苦痛くつうを感じた。

一一

雄吉が、新聞社に入社して以来、一番苦痛を感じた仕事は、不幸ふこう災害さいがいの涙に閉ざされている人を、訪問する事であった。社会部長から、特別に扱われていた雄吉は、文芸美術とか教育とか家庭かていとか、割合わりあい上品じょうひんな仕事に差し向けられていたが、それでも生憎あいにくほかに人手ひとでのない時は、どんな仕事をやらされるか判らなかった。
 彼は、入社してから、まだ一月位しか経たない頃、ある有名な飛行機ひこうき将校しょうこう惨死ざんししたので、その遺族いぞくの訪問を命ぜられた事があった。
 その遺族は、あの繁華はんかな街の路地裏路地裏に住んでいた。雄吉が、訪問した時には、死んだ将校の両親りょうしんは、所沢へ急行していて、将校のいもうとだけが留守るすをしていた。まだ二十になるかならない若い娘だった。二つの眼を泣きらしているその女の顔を見ると、雄吉は自分の訪問の無躾ぶしつけさを、心から恥じずにはいられなかった。肉親にくしんの死という重大じゅうだいな悲しみに閉ざされている、かよわい﹅﹅﹅﹅女性に対して、見ず知らずの人間が、いきなり面会めんかいを求めて、色々な質問を浴びせかけるということが、彼には人間的な正しい仕事とはどうしても思われなかった。それは、個人的プライベート苦悶アゴニーを、公衆こうしゅう面前めんぜんに晒そうという残酷ざんこくな仕事のようにしか思われなかった。が、雄吉が、そうした躊躇ちゅうちょとらわれてモジモジしているうちに、一足ひとあし遅れて来た他社の記者らしい男は、 「あああなたが妹さんですか。今度は、おにい様がとんだ御災難さいなんで、何ともお気の毒なことです。ぇぇ、それで確か、お兄様は奥様おくさまは御座いませんでしたね、御両親はお二人とも御無事ぶじで、ァァなる程、それで御兄弟は、あなたお一人、お兄さんのお年は確か……」
 と、言ったような明晰めいせきな口調で、相手の感情などには少しも影響されないで、涙に むせんでいる相手あいてからグングン所要しょようの返事を受け取っていった。雄吉は、この男のお陰で、漸く自分の職責しょくせきを果たすことが出来た。が、それ以来彼は、不幸におちいっている人々や、悲しみにもだえている家を、記者として訪問する事だけはなるべく避けたいと思っていた。
 しかるに、彼は今死にかかっている松本さんの家を訪問することを命ぜられたのである。家族や十人に余る門弟もんてい瀕死ひんしの松本さんを取り囲んで、悲しみ嘆いている所へ、記者として突入して行くことは、雄吉の神経しんけいが堪え得る以上の事であった。それも、見ず知らずの他人ばかりの所ならいい、そこには雄吉を知っている多くの人がいる。先生の危篤に際して、並河や久野や杉村などは、心から純粋じゅんすい憂慮ゆうりょし、悲嘆ひたんしている処に、雄吉一人は、記者として仕事をしなければならないという事を考えると、彼はどう思い直しても松本さんの家をう気にはなれなかった。  彼は、とうとう一策いっさくを考え付いた。杉村は、これから松本さんの家へ行くに違いない。久野や並河は向こうにいるに違いない。それなら、自分自身が訪問しなくっても、久野や杉村を呼び出して様子ようすを訊けばよい。そう思うと、雄吉は、やっと一条活路が見出されたように思った。

十二

 雄吉が、芝の下宿を出たのは、もう夕暮ゆうぐに近い頃だった。彼は、本郷へ行く電車の中でも、杉村がまだ出かけないでいてくれればいいと思った。
 本郷の三丁目で、電車を降りて、いつも目標にしている郵便箱に添うて、横町に折れると、杉村が宿っている素人下宿へは、十間じゅっけん距離きょりもなかった。主婦しゅふばあさんに杉村の在宅ざいたくを確かめて、案内あんないをしないで、二階へ上って行くと、杉村は外出がいしゅつするばかり扮装ふんそうをしながら、部屋へや中を不安らしく歩き廻っている所だった。雄吉は、挨拶もしないでいきなり「どうしたんだい。まだ行かないのか」と、訊いた。いつも、キチンと取り済しているような顔をしている杉村は、平素へいそよりも、もっと沈んだ様子をしながら、
「実は、今迷っている所なんだ。余り親しく出入りしたこともない者が、取り込んでいる所へ行くのはどうかと思っているんだ。愈々いよいよ亡くなられたということになれば行ってもいいのだが」と、言った。杉村が、いう事に無理がなかった。杉村や久野は、金曜会に時々顔を出しているとは言っても、まだ日数が浅いし、松本さんとは、知り合いであっても、松本さんの奥さんや、数多くの令嬢れいじょうなどは、顔さえまだ見知らない程であったのだ。その上、見舞いにも、ロクロク行ってない者が、危篤という時に、あわてて駈けつけるのは、不穏当ふおんとうでもあれば無躾でもあったのだ。が、それが無躾であるとすれば、雄吉が新聞記者として、入って行くのは、それとは段違だんちがの無躾に違わなかった。雄吉は、杉村の言葉で、前よりも一層いっそう悄気ながら、それでも思った通りの計画けいかくを捨てようとは思わなかった。
しか、久野は行っているのだろう」
「ああ行っている。あいつの所へは、電話がかかって来たからな」と、杉村は答えた。
「久野が行っているなら、君も行ったって、そう変でもないだろう。実は、松本さんが、危篤だということを、社の方へ知らしてやったら、社で僕に行ってくれというので、大いに参っているんだ。僕は、松本さんとは馴染みも薄いし、殊に記者として、こんな場合ばあいに松本さんの家へ顔を出すのは、どうにも堪らないと思うのだ。君なら僕よりは度々行っているし、行ったって変じゃないだろう。僕は、そばまで一緒に行って待っているから、病状びょうじょうや何かの事をよく訊いて来て、教えてくれないか」と、雄吉は心から頼んだ。
「ああそうか。じゃ僕は、行くことにしよう。行った方がいいと思っていたのだ」
 雄吉と杉村とは、すぐ杉村の下宿を出て、江戸川行きの電車に乗った。無口むくちな杉村は何か一人で考え込んでいた。
 雄吉は、自分の職業上是非とも喰わなければならないにらの苦さを、しみじみ﹅﹅﹅﹅味わっていた。彼とても、松本さんの危篤に対して、純な悲しみと心配とをいだ得ない訳ではないのだ。が、職責の意識は、そうした純な悲しみや心配を、散々さんざんにごしてしまっているのだ。杉村や久野や、並河は、松本さんの危篤を文豪ぶんごうの危篤、恩師おんしの危篤として純粋に悲しみ純粋に心配しているのだ。雄吉は、それに対して悲しみながらも、自分の仕事の題目だいもくにしなければならないのだ。そう考えていると、雄吉の心は、現在げんざいの自分をあわれあじきなさ﹅﹅﹅﹅﹅に似た心持ちで一杯になった。

十三

 江戸川の終点で、電車を捨てた雄吉と杉村は、初冬しょとうの晩であるにもかかわらず、露店の灯が明るく続いている矢来の通りを、足早あしばやに歩いた。雄吉は、電話を引いてある一軒の西洋料理店レストウラントを見付けると、立ち止って杉村に言った。
「じゃ、僕はここで待っているからね。病気の経過だとか、見舞いに来ている人の名前だとか、成るべくくわしく聞いて来てくれないか」
「ああよしよし。が、少しは手間取てまどかも知れないぞ」と、杉村は頼もしげに引き受けながらいそあしに松本さんの家へ向かった。
 雄吉は、まだ夕飯ゆうはん前であったが、仕事についての責任せきにん感と、松本さんの危篤に対する不安とで、心がえず震蘯しんとうするようで、食欲しょくよくなどは少しも起こらなかった。それでも給仕女が注文を訊きに来た時に、夕食ゆうしょくの為に二皿ばかり注文した。
 杉村は思ったよりも、早く帰って来た。彼は先刻せんこく別れた時とは、別人のように真面目シーリヤス緊張きんちょうした顔になっていた。彼は、松本さんの家へ行って、そこに濃くみなぎっている悲痛ひつう哀悼あいとうとの雰囲気アトモスフイアを、呼吸こきゅうしたために、スッカリそうした心持ちに浸っているようであった。
「もう、臨終りんじゅうの前だ。もう一時間とは、持たないらしい。昏睡こんすい状態が続いているんだ。何でも発病は、先月の二十五日で、この二日と七日とに、ニ度ばかり重態になったことがあるそうだ。病気は矢張やは、先生の痼疾腎臓病なんだ」
「見舞客は?」と、雄吉が訊いた。
「ああよくは訊かなかったが、大抵来ているらしい。先生の旧友の鉄道院総裁そうさい中内さん、加能博士、坂口博士、沢柳さんなど随分ずいぶん来ているらしい。無論門下生は皆来ている。新聞記者は皆玄関で断っているよ。じゃ僕はいかなければならない」と、言いながら杉村は、すぐにも引き返そうとした。雄吉は、
「それじゃ、もし亡くなられたら、又教えてくれ。茲で待っているから」と言った。が、杉村は返事もしないで、グングン行ってしまった。松本さんの危篤という事実を、眼前がんぜんに見た杉村は、それから深い感激を受けてしまって、雄吉の代理人だいりにんと言ったようないやしい仕事をする興味は、少しもなくなったようであった。雄吉は、振り向きもしないで、松本さんの死床しにどこへ、敬虔な悲痛な心持ちで急いで行くらしい杉村の姿を見ていると、又自分の現在の位置のみじめさ﹅﹅﹅﹅を感ぜずにはいられなかった。
 が、彼の職責感は彼をすぐ呼び覚した。彼はすぐ社の編集へ電話を掛けて、杉村から聴いた通りを報告した。
「それで、松本さんが死なれたら、すぐ知らせます」と、つけ加えた。すると、雄吉の報告を黙って聴いていた江藤さんは、
「いや死ぬという事は、それはもう時間の問題でしょう。それよりも、貴君に中内さんの話を聞いてもらいたいのです。」と、言った。
 江藤さんの言葉は、まだ新聞記者として、何の智識ちしきうでもない雄吉にとって、グザと急所きゅうしょを刺したような言葉だった。実際じっさい 考えて見れば、死ぬ時間などは、この場合、問題でも何でもなかった。中内さん――そうだ、それは松本藻石の死について、談話だんわを聞かなければならぬ最初の人だった。その人は、松本さんとの同窓どうそうで、松本さんはその人の名前を、その著書ちょしょに於いて、びつけにするほど、その人と親しかった。

十四

 江藤さんの言葉を聴くと、雄吉は、いかに感情の上で、特別な苦痛があるにしろ、自分自身で、松本さんの家に行かなかったことをとがめられたように感じた。そう感ずると同時に、彼は職業上の責任をハッキリと意識した。その職業の性質が何であるにしろ、その職業に依って生活している以上、その職が、命ずることを避けるのは、卑怯ひきょうな事ではあるまいかと思った。そう思い返すと、彼は勇気に似た心持ちをふるい起す事が出来た。
「じゃ、これから行って、中内さんの話を聞いて来ましょう」と言いながら、雄吉は電話を切った。
 彼は、割合元気げんきよく松本さんの家に向かった。が、先刻杉村が「新聞記者は、皆断っている」などという言葉を思い出すと、彼の心はタジタジとなりかけた。
 松本さんの家の門は、一杯に開け放たれてあった。家の中には、煌々こうこう瓦斯ガスの光が輝いていた。が、そうした明るさのうちに、何処どことなく空虚くうきょな、頼りのない静寂せいじゃくが、うずくまっているように思われた。雄吉は、門を入ると、更に一段の勇気をて、玄関の方へ急いだ。が、彼が玄関に近づかない前に、玄関の前の植込うえこみの陰に立っていた男は、雄吉を、 「もしもし」と、呼び止めた。雄吉は、ちょっと嫌な気がして立ち止まった。その男は、雄吉とは一度も顔を合わした事のない門下生であるらしかった。
「貴君は新聞記者の方じゃありませんか。記者の方は、今夜は一切お断りしていますから」と、言った。松本さんを常に、偶像視アイドライズし勝ちな門下生の人々は、その先生の神聖な厳粛げんしゅくな死床へは、不純ふじゅんな者は一歩も近づけないというような決心けっしんを持っているらしかった。雄吉は、その世間知らずな、お坊っちやん的な態度に、職業上から来る反感を懐かずにはいられなかった。 「僕は、×××の木村です。記者として来たのではありません」と、言った。その人は、さすがに雄吉の名前は知っていたと見え、その粗忽そこつを詫びるように、コソコソと植込の中へ退いた。が、雄吉はこの男の行動こうどうに依って、家の中の人達の心持ちを推測すいそくすることが出来た。門下生の人達は、教祖きょうその死床を廻っている弟子達のように、敬虔な緊縮きんしゅくした心持ちに浸っているらしかった。
 玄関には、二、三人の人達がいた。雄吉は名刺めいしを出して、病状をたずねようとした。すると、おりよくおくから出て来た久野は、雄吉の姿を見付けると、
「ああ木村かい。先生は三十分も前に、御臨終だったのだ。君は、金曜会で先生にお目にかかった事があるのだから、奥へ通って先生にお別れをしたらいいだろう」 と、言った。雄吉は、久野の取り成しを嬉しく思わずにはいられなかった。彼は、久野に随いて、松本さんの死床へ近づいた。
 その時、彼の心から新聞記者としての意識は、もう雲散うんさんし尽くしていた。そこには文芸の死という厳粛な事実が、ひしひしと彼に迫って来るだけであった。その痩せはてたいたましい死顔に、眼を触れた時、雄吉の眼にも、涙があふれた。彼は、何かしら重々しい力に厭倒えんとうされたような心持ちになって、心から頭を下げずにはいられなかった。

十五

 松本さんの遺骸いがいの傍を離れると、雄吉は又、純な哀悼の心と、自分の職責に対する責任感との相剋そうこくに苦しまねばならなかった。彼は中内さんの話を聞かねばならなかった。久野に頼んで、名刺を通じてもらった。が、キツパリ拒絶きょぜつせられた。加能博士や阪口博士に頼んでも同じ結果けっかだった。彼は、仕様事しょうことなしに、門下生の中で、一番先輩と言ってもいい、小島さんに、話を頼んでみた。小島さんは、雄吉の頼みを訊くと、急に顔色かおいろ替えながら
「私は、話なんか決してしません。こんな時に」と、言いながら、雄吉の顔を見返した。そのひとみは、さげすいきどおとで、光っているようであった。松本さんの死は、これ等の人達にとって、神聖しんせい犯すべからざる厳粛な事実であったのだろう。
それを、新聞の材料にしようとする雄吉などは、エルサレムけが異教徒いきょうとのように、彼等の眼に映ったのであろう。雄吉の胸には、苦い暗い感情が、渦を巻いて流れ始めていた。松本さんの死に対する哀悼や、記者として不当ふとうに扱われた口惜くちおしさや、蔑まされた無念や、皆が純な哀悼に浸っている間に、自分一人、油が水に混じったように、記者として仕事をやらなければならなかった淋びしさや、その他種々しゅじゅ雑多ざったな感情が、その渦巻うずまの中に混じっていた。
「木村はくやに来たのではない、記者としてたねを取りに来たのだ」と、思われていやしないかと思うと、雄吉は一刻いっこくも、じっとしている心はなかった。彼は逃げるようにして、松本さんの家を出た。久野や、並河や、杉村は皆、お通夜つやをすると言っていた。もし、記者をしていなければ、雄吉も純な哀悼者として、皆と一緒にお通夜も出来るのにと思った。雄吉は、自分の職業を恨めしく思わずにはいられなかった。戸外こがいへ出て見ると、夜はよほどけているらしかった。編集へ電話を掛けなければならぬ事を思うと、彼の心は一層暗くなって行くのであった。
* * * * *
 久野や杉村は、その翌日よくじつもその翌日も、松本さんの家へ行った。彼等は、二晩も三晩も続けてお通夜をし、お葬式の準備などにも神妙しんみょう奔走ほんそうした、色々な仏事ぶつじの席にも連なった。おしまいには、夫人や令嬢とも近づきになった。松本さんを失った淋びしい家庭の若い訪問客として、歓待かんたいされるようになっていた。松本さんの生きている間は、並河や久野や杉村や雄吉の松本さんに対する関係は、そこに厚薄深浅の差違さいこそあったが、その性質は同じであった。が、雄吉は松本さんの死床に、お通夜をしなかった為、それきりになってしまった。並河は、東京に近い都市としにある専門学校せんもんがっこう教授きょうじゅをしていた為、松本家へは必要以外、出入りをしなかった。久野と杉村とだけは、松本さんの死を境目さかいめとして松本家に親しく出入りするようになった。松本さんの生きている中は顔も見知らなかった夫人や令嬢と親しく口をき合うようになっていた。

十六 *

 久野と杉村が、松本さんの家庭に対する親しみは、年を越えてから、日に増し濃密のうみつの度を加えて行った。久野も杉村も、今まで長い間荒寥こうりょうたる下宿生活を生活して、家庭的な優しみや温かみには、心から飢えていた。母や姉や妹などから感ずる、家庭的な女性の優しみにもえていた。しかるに、主を失った松本さんの家では、その夫人の闊達かったつな性格から、自由に若い門下生を出入りせしめた。殊に久野や杉村はその学生気質の抜け切らない所が、かえって夫人の気に入っているらしかった。それに、男手おとこでのない家で、色々な雑事を頼むのには、年配の門下生などよりも、久野や杉村などの方が、頼み易い為でもあったのだろう。夫人の久野や杉村に対する信頼しんらいもかなり深いものであるらしかった。
 久野や杉村は、雄吉に会うとこんな事を言った。
「あんないい奥様はないよ。頭がよくて、物が判って、ちょっと『光と影』の中に出て来る芳川夫人のような面影おもかげがあるよ。それに、姐御情調があって、よく僕達の世話をしてくれるよ。小島さんや、井上さんなどの古い門下生は、奥様を掣肘せいちゅうしたりなんかしようとするので、僕達の方が却って、信任しんにんを得ているよ。僕達の田舎者いなかものらしい所が、江戸えどの奥様は気に入っているらしいんだ」
 二人は、明らかに彼等に対して、新しくひらかれたこの交渉を、かなり享楽きょうらくしているらしかった。
 その上松本さんの家には、若い三人の令嬢があった。バァ給仕女ウエイトレスや、下宿の女中や、職業的な婦人などのほかには、女性と口を利いたことのない久野や杉村は、純良じゅんりょうな家庭的な処女と、自由に接触せっしょくすることに新しいよろこびを感じているらしかった。
「お嬢さんは、三人あるよ。一番下のお嬢さんが一番顔立かおだちが整っている。大きくなれば、屹度きっと美人シャンになるだろう、二番目のお嬢さんは、輪郭りんかくの大きい、パッとした華美かびな顔立で、外交がいこう官の夫人が希望きぼうらしいんだ。一番上のお嬢さんは、顔立ちは整っていないが、フレッシュな所があっていいよ」と、久野はその令嬢達の容貌ようぼうを雄吉に紹介してくれたことがあった。
 が、そんな事があってから、間もない事であった。雄吉が、ある日久野を訪問すると、そこに来合せていた杉村が、何かしきりに久野を、揶揄からか続けていた。それは、雄吉には解らないで、久野と杉村とだけに、共通きょうつうした題目であるらしかった。久野は、雄吉を見ると、一層顔を赤らめながら、杉村の揶揄いを扱らい兼ねていた。
「どうしたんだい。どうしたんだい」と、雄吉が訊くと、杉村は久野の顔をジロリと見ながら、人の悪い微笑を浮かべて、
「いや、この方の事なんだよ。」と、雄吉をらしながら、
「どうだい、久野。白状はくじょうしてしまえよ。昨夕の君の様子と言ったら、何と言ったって、弁解べんかいが付かないよ、あれで君がT子さんに惚れていないというのなら、それは君の自己欺瞞ぎまんだよ。おいどうだ! 白状してしまえよ」と、杉村は久野の急所を押さえつけたように、グイグイと攻めつけていた。久野は、顔を赤くしながらニヤリニヤリと苦笑とも微笑とも、つかない笑いを洩らしていた。T子というのは、誰の事だか、雄吉にはちょっと見当けんとうが立たなかった。

十七

 久野が、T子に恋しているという、杉村の言葉を聞くと、雄吉は「あ、また始まったな」と思わずにはいられなかった。感受性かんじゅせいが豊かで、人なつこくて﹅﹅﹅﹅﹅﹅女性讃美者フエミニストである久野は、きあたりばったりに、恋をする男であった。「俺は、いつでも誰かしら異性いせいを恋している。現在自分の接触する女性の中で、一番美しい女を恋している。俺は、一時でも誰かを恋せずにはいられない」と、自分自身で、時々述懐じゅっかいしている程、久野は多くの女性を恋して来た。が、その恋は、ドンファンが、一人の女から一人の女へと、恋の巡礼じゅんれいを続けて行ったような、軽佻けいちょうな浮きすべりのした恋ではなかった。彼のどの恋も、どの恋も真面目であり、本心からのものであった。が、彼のどの恋も、どの恋も、むくいられたものはなかった。
 蕩児とうじが、一つの恋を味わい尽くして、他の恋に移るのとは違って、彼は一つの恋に破れると、その傷手いたでを癒す為に、新しい他の恋に移って行くのだった。三年の大学生活の間、久野と離れていた雄吉でさえ、久野が恋していた女を、三、四人も数えることが出来た。が、その過去かこの恋が、どれもこれもかなり、真剣しんけんなのを知っている雄吉は「あ、また始まったな」と、心では思ったものの、それは久野の新しい恋に対する軽蔑けいべつを少しも含んではいなかった。
 杉村は尚、久野を揶揄い続けていた。
「どうも、この間中から、君の様子が変だ変だと思っていたのだが、今日きょうはスッカリ悟ってしまったよ。君は、今日T子さんと、闘球盤とうきゅうばんをしていたとき、まるでオドオドしてしまって、三遍さんべんも続けざまに、負けてしまったじゃないか。俺だって、T子さんには負けないのに、君があんなに負けるなんて、全くおかしいじゃないか」
 杉村に、グングン急所を、突かれているらしい久野は、弁解の勇気などは、少しも無いように悄気てしまっていた。
一体いったい、T子さんというのは、誰だい。」と、雄吉はこの会話の圏内には入る為に、訊いて見た。
「いや、今に判るよ」と、杉村は雄吉を焦らしながら、久野を揶揄い続けていた。
 が、雄吉にも、T子が一体、何の方面の女性であるかは、すぐ見当が立っていた。杉村の話しりに依れば、それは明らかに良家りょうけ処女しょじょだった。雄吉が知らないで、杉村と久野とだけが、知っている良家と言えば、今の場合松本家よりほかにはなかった。そうだとすると、そのT子というのも、松本家に関係ある女性に違いない。が、まさか松本さんのお嬢さんではあるまい。如何いかに、久野が恋し易いからと言って、松本さんが死んでから、まだ三月とも、経たない悲しみの家に出入りしながら、その家の令嬢に恋をするということは、雄吉には、かなり慎みのないことのように思われた。
が、雄吉は念の為に訊いて見た。
「まさか、そのT子というのは松本さんのお嬢様じゃあるまいね。」
 杉村は、苦笑を洩らしながら黙っていた。久野は、子供のように顔を赤くしながら悄気切ってしまった。

十八

 心に思っていることを、どうしても隠しきれない久野は、自分の新しき恋を、すぐ皆に打ち開けてしまった。T子というのは、雄吉の質問した通り、やっぱり松本さんの令嬢で、しかも長女に当る妙子さんの事だった。
「妙子さんなんて、よつぽどの美人シャンなのかい」と、雄吉は久野が、初めて彼の恋を、自分で告白した時に、すぐそう訊いて見た。
「そうだねぇ」と、ちょっと考えてから「いや、決して美人ではないねぇ。が、何処となくフレッシュな所があるんだ。本当に、処女らしいフレッシュな所が」と、言った。
 学生生活をして、給仕女ウエイトレスや牛肉屋の女中や、そう言った種類の女性にしか、接したことのない久野が、彼が初めて接した良家の令嬢を恋するということは、雄吉には非常に自然に思われた。不幸の涙が、まだ乾き切らない家で、先生の遺孤いこに対する恋をはぐくんで行ったということが、雄吉には、ちょっと久野の不謹慎ふきんしんのように思われた。が、純真じゅんしんに心の中にぐんで行く物に対して、道徳どうとく的な非難を加えるわけに行かなかった。 *
「それで、T子さんは君の事を、どう思っているのだ。少しは、君をよく思っているらしいのかい」と、雄吉は好奇心こうきしんを、交じえながら訊いた。
「ああ、門下生の中では、かなり親切しんせつにしてくれるんだ。が、どうも僕より杉村の方が、気に入っているらしいのだ」と、言いながら、久野はちょっと顔を暗くしたが「が、どちらにしろ、幾何いくばく恋したって、とても成功せいこう覚束おぼつかないんだ。何でも、奥さんは、文学士には娘をやらないと言っているそうだから、とても駄目らしい。それに、この頃時々かかって来る縁談えんだんの口などを聞いて見ると、がっかり﹅﹅﹅﹅する程、いい所から来るらしいからねえ」と、久野は早くも、すべてを諦めたような、絶望ぜつぼう的な調子で言った。雄吉も、無論久野のあきらめ﹅﹅﹅﹅を、打破だはしてやれる何等の慰藉いしゃも考えつかなかった。久野は、やっと学校を出たばかりで、文壇的な声名せいめいも、確立かくりつしていない上に、雄吉と同じように無資産しさんであった。恋をするのにも、自分自身だけが頼りであるのだが、ただその恋が純真であるというほかには、ほとんど何等のも持ち合わせていなかった。異性の心をとらえ得るような人格的強さなどは、薬にするほども、持っていなかった。容貌については、もっと資格しかくがなかった。が、久野はありふれた﹅﹅﹅﹅﹅女性の心を、攻める何等の武器ぶきも持っていないのに拘わらず、永久に恋をせずにはいられない男だった。
「が、そんなに今から諦めるのにも当らないじゃないか。相手の心さえ得れば、そんな周囲の故障こしょうなどは何でもないじゃないか」と、雄吉は久野を、慰めてやる為にそう言った。が、心のうちでは、そうは考えなかった。
「あ、久野はまた抜けみちのないめくら小路へ、入ったんだな。これから又、苦しむんだな」と思わずにはいられなかった。

十九

 久野の恋は、十日経ち二十日経つうちに、眼に見えて進んで行くらしかった。恋に陥り易い久野は、恋い進んで行く加速度かそくども、かなり烈しかった。彼は何かしら、口実こうじつを見つけて、松本さんの家に出かけて行くらしかった。が、久野の恋が進むに従って、その恋の陰に蹲っている彼の不安も、又ムクムク頭をもたげて来るらしかった。 久野はある日雄吉に逢うと、彼自身の恋の最近の消息を語った後で、心持ち顔を暗くしながら、
「どうも、妙子さんは杉村に惚れているらしいのだ。もっと表面ひょうめんでは僕と杉村とに対して、同じように親切にしてくれるけど、どうも杉村に打ちけているらしいのだ。」と言った。久野のそうした不安には、雄吉も同情せずにいられなかった。 杉村は久野に比べると、愛嬌あいきょうのある浅黒い、男らしい丸顔は別としても、人格的にも妙な魅力みりょくを持っていた。殊に、女性を惹きつけやすい頼もしさと、力強さとを持っていた。そうした杉村の優越シウピリオリテイを、久野は他の何人よりも、強く感じていた。何故と言えば、久野と杉村とは、一高時代からの親友で、あしのうらのほくろまでも、お互いに知り合っていた。二人に共通した過去の経験けいけんにおいて、久野は杉村の人格的な魅力を、幾度いくども味わされていたのであった。
「僕の所へ来る文学青年なども、いつの間にか、杉村の方へ行ってしまうのだ。あいつには、何となく人好きのする所があるよ」と、久野は口癖くちぐせのように言っていた。 その事は、雄吉も同感どうかんであった。雄吉自身でさえ、久野よりも杉村の方に、ある頼もしさを感じていたのだから。
 が、久野が杉村のそうした優越を、感ずれば感ずるほど、久野にとって、そうした魅力のある杉村が、自分の恋人こいびとに、自分と同じ程度で接触していることは、かなり心配な事に相違なかった。久野の「妙子さんは杉村に惚れているかも知れない」という心配は、雄吉にとっても、かなり実在性じつざいせいに触れた心配のように思われた。
「で、杉村の方はどう思っているんだ」と、雄吉が訊くと、久野は言下げんかに、
「いや、杉村は妙子さんを、どうとも思っていないというのだ。僕は、自分の恋を打ちあける前に、杉村に訊いて見たんだ。君は妙子さんを、何と思っていると言って、訊いたんだ。何とも思っていないと言ったから、僕は安心して自分の恋に陥って行ったんだ。が、どうも、妙子さんは僕よりも杉村に打ち解けているらしいんだ」と、言った。
「杉村が、何とも思っていないのなら、何も心配する事はないじゃないか。それよりも、君が妙子さんの心をることの方が問題だろう」と、雄吉は答えた。
「が、妙子さんの心が杉村に傾いている以上、僕がそれを獲るということは、至難しなんの事じゃないか、それに杉村の心だっていつ変らないとも保証ほしょうは出来ないだろう」と、言いながら久野は首をうなだれた。それは、久野のいう通り、誰も保証の出来ぬ事だった。

二〇

 が、杉村は久野の心配を事も無げに、打ち消していた。
「僕は妙子さんの事なんか、何とも思っていやしないよ。妙子さんの方で、僕の事をどう思っているか知らないが、しかし妙子さんが、久野よりも、僕と打ち解けているように見えるのは、そりゃ事実だよ。が、それというのも、久野は妙子さんの前へ出ると、まるきり固くなって、手も足も出ないのだよ。時々、何か気の利いたことやろうとすると、それが却ってトンチンカンヘマな事になってしまうのだ。久野は妙子さんの前へ出ると、まるでオドオドしてしまって、失策しくじってばかりいるのだよ。だから先輩の小島君なんかにも、久野のオドオドした所が眼につくと見えて「久野君は変だ変だ」と言っている位だよ。もっと、大胆にならなきゃ、トテも駄目だと思うね」と、言っていた。雄吉は、久野が恋人の前に出た時の、堅くなった不器用な様子を、アリアリと想像そうぞうすることが出来た。久野は、喜怒哀楽を、すぐ顔に現わしてしまう男だった。心の中のどんな小さい波動はどうでも、表面へ出さずには、いられない男だった。久野が、恋人の前で、少しの事でテレ切ってしまったり、* 悄気てしまったり、興奮したり、悲しんだり、得意とくいになったりする有様ありさまが、雄吉にはマザマザと想い浮かべられた。従って、久野には恋人の心を獲る為に、策略さくりゃくろうたり、技巧を弄したりすることは思いも及ばぬことであった。ただ愛する心に苦しみながら、手も足も出ないで、ヘマな事をしている久野の事を考えると、雄吉は可哀かわいそうでもあれば、可笑おかしくもあった。 *
 久野が、妙子さんに恋し始めてから、一月も経った頃だった。久野は、雄吉にこんなことを言った。
「僕は、妙子さんに対して、もう少し積極的に出ようと決心したよ。杉村にも、そう言って、許可きょかを求めたよ。許可を求めるというのも可笑しいが、つい杉村が、心の中で妙子さんに恋をしていると、後で飛んだ悲劇ひげきになるからね」
「そうだ、松本さんの小説の『その跡』のようになると大変だ」と、雄吉も合槌を打った。
『その跡』は、松本さんの作品の中でも、すぐれた作の一つであった。心の奥深く恋していた女を、ふとした友情ゆうじょう的興奮から、友人に譲って、自己犠牲ぎせいの偽りの満足に、快々かいかいとして数年を過ごしたが、偶然ぐうぜん邂逅かいこうに、道徳的虚偽きょぎ仮面かめんを脱ぎ捨てて、友人の手からその女を奪い還すというすじであった。
「いや『その跡』のようになるのなら、まだいいが、先生の『』のようになると、大変だからね」と久野が言った。『魂』の筋は、友達同士が、美しい友人の仮面を、被りながら、一人の女を奪い合うて、敗れた方が、自殺じさつをするという、『その跡』よりも、もっと深刻しんこくな作品であった。

二一

「僕と杉村との関係が、『魂』や『その跡』のようになると、大変だと思ったから、僕は杉村の心の中を、幾度も確めて見たのだが、杉村は大丈夫だいじょうぶだと言って、保証してくれたから、僕も、もっと積極的に出て見ようと思うのだ。なに妙子さんだって、僕に満更まんざら好意がない訳ではないよ」と言いながら、久野は何か頼もしい曙光しょこうを見つけたかのように快活かいかつであった。
馬鹿ばか景気けいきが、好さそうじゃないか。何かいい事があったんだな」と、雄吉が揶揄い半分にいうと、久野はホクホク笑いながら、
「何に、大した事もないのだがね。奥さんは、前には妙子さんを、文学士だとか小説家などには、決してやらないと言っていたのだが、この頃では文学者でもいいというような口吻こうふんを洩らしているのだ。先生が、死んで、男子と言っては、十一になる洋一さんだけだろう。だから、妙子さんの夫になる人に、洋一さんが大きくなるまで、松本家の家事かじを見てもらいたいというのだろう。従って、お婿さんの資格をグッと引き下げたという訳なのだ。それに、妙子さんが、僕に対して、相当そうとう好意を持っていることを発見はっけんしたし……」
「それじゃ、大に有望ゆうぼうな訳なんだね」
「ああ、前よりは、余程よほどよくなったんだ。ああそうそう、君に逢ったら、頼もうと思っていたんだがね。去年きょねんの九月頃だって、妙子さんと奥さんと、妙子さんの妹二人と四人連れで、上野公園を散歩さんぽしていると、横合よこあから、ツカツカと進んで来た一人の写真師が、妙子さん達を、不意ふいうつしたんだって、その写真師が君の方の新聞の写真師だって」
「ああなるほど。藻石氏の夫人及び令嬢というので撮ったんだな」
「いや、それがそうじゃないんだ。そのくる日の君の方の新聞を見ると、ただ『初秋しょしゅう日曜にちよう』とかいう題で出ているんだって」
「それじゃ、写真師が、『秋の景物けいぶつ』として、出鱈目でたらめに撮した訳なのだね。そりや、ちょっと面白いね」
「全くの偶然なのだ。それで、奥様や、妹さん達は撮される瞬間しゅんかんに気がついて、顔を隠したけれど、妙子さんはボンヤリしていたので、妙子さんの顔が一番よく撮っているんだ」
「それで、君がその写真を欲しいというんだな」
「いや、僕が欲しいという訳じゃないんだ。昨日松本さんの家で、その話が出て、妙子さんが木村さんに頼んだら、一枚もらえやしないかというんだ」
「そりや、写真師に言って、探してもらえばすぐあるだろう。九月の終り頃だって」
「何でも、九月の最終さいしゅうの日曜だって」
「それならすぐ判るだろう」
「どうだろう、一枚のも、二枚焼くのも同じじゃないか」
「そりや同じだ」
「じゃ二枚焼いてくれると、非常に感謝かんしゃするな」
「君が一枚保存ほぞんしておくつもりなんだろう。とうとう本音ほんねを吐いてしまったな」

二二

 雄吉は久野の頼みをこころよった。久野が、二枚の写真の中一枚を自分が所有しょゆうして、恋人の面影を、座右ざゆうしのよすがとし、他の一枚を松本家へ持って行く事に依って、松本家訪問の口実ともすれば、恋人の頼みを叶える満足をも、併せ味わうとしている心持ちは、雄吉にもよく判ったが、彼はそうした久野の心持ちに同情する事が出来た。それに、友人の恋人の顔を、初めて見るという好奇心も、手伝った。
 写真は、思いのほか早く見つかった。社の写真師は、雄吉の話を聴くと、
「ああそうそう。そんな事が、あったっけ。ほほぅ、あれが松本さんの家族かい。江藤さんに、何でもいいから、日曜の気分が出ている所を、撮ってくれと言われたものだから、上野公園をブラブラしていると、不忍しのばずいけの端で、あの連中にあったから、いきなりバッタリやったんだ。向こうじゃ、泡喰あわくっていたらしいよ。すぐ焼いて来てやるよ」と、言いながら、写真師は自分の部屋の方へ行った。それから、二時間ばかり経った後であった。雄吉が、外出から帰って来ると、自分のつくえの上に、二ようの写真が原稿げんこう紙に包まれて、置かれてあった。
 彼は、その写真を、軽い興奮を感じながら、取り上げた。蝙蝠傘こうもりがさの柄が、丁度顔の真中を隠しているので、顔容かおばせは十分に判らなかったが、「美人シャンじゃない、しかしフレッシュな所があるよ」と、いう久野の弁解的な言葉を想い出して、雄吉はちょっと微笑せずにはいられなかった。いかにも、久野の言った通り、顔立の整った美人とは、思われなかったが、何処となく、処女らしい清純せいじゅんな面影だけはあった。
 その晩、雄吉は社がけると、久野に写真を届ける為に、すぐ本郷行きの電車に乗った。三丁目で、電車を降りると、彼はいつもの習慣しゅうかん通り、すぐ近くの杉村の下宿へ寄って見た。杉村がいたら、杉村を誘って、西片町の久野の下宿へ行くつもりであった。
 杉村は折よく居合わした。
「久野の所へ一緒に行かないかい」と、雄吉が誘うと、杉村は、
「つい先刻、久野と別れたばかりなのだが、行ってもいい。何か用があるのかい」
「ああ久野に頼まれた写真を、持って来たのだ。」
「あ、例の写真だな。ちょっと見せてくれないか」
 雄吉が、ポケットから出して見せると、杉村はつくづくと見ていたが、
「割合よく写っている。こりや君、久野にただ与えるのは惜しいよ。一枚五円位で、売ってやるとか、何とか言って焦らしてやるんだね。少くとも何かおごらせてやるんだよ。僕がその交渉をしてやるから」と言いながら、杉村は写真を持ちながら、立ち上がった。杉村は、どちらかと言えば、人を揶揄ったり、悪戯いたずらをしたりすることの好きな男であった。

二三

 杉村の下宿と久野の下宿とは、五ちょうと離れてはいなかった。その短い距離を、二人は一日に二度も三度も行ったり来たりする程親しかった。毎日まいにちのように、来馴れている杉村は、下宿の女将おかみに、ちょっと目礼もくれいすると、グングン久野の部屋に通った。雄吉もその後に続いた。仰向あおむに、寝ころんで、ボンヤリ何か考えていたらしい久野は、
「やあ!」と言いながら起き上がった。
「ちょっと急な用があって、来たんだよ」と、言いながら、杉村はゆっくりすわり込んだ。
「急な用って」と、久野はちょっと不安な顔をした。平時へいじから、小心しょうしんな久野は、恋をするようになってから、尚更過敏かびんになった神経をいらだたせていた。
 杉村は、人の悪そうな微笑を、ニヤリニヤリと浮かべる事に依って、久野を一段と不安にしながら、
「実は、君に買ってもらいたいものがあるんだがね。君でなければ、ほかに買い手がないんだ。ね、木村!」と、杉村は久野を焦らせる為、いやに落着おちついた薄気味うすきみわるような言葉遣ことばづかをした。まるで、手に入れた相手の密書みっしょを、高く売りつけようという、旧劇きゅうげきに、よくある狂言の、一齣ひとこまを演じているように。ワキ役に当っている雄吉は、黙って杉村のやる芝居しばいを見ていた。
「実は、ほかの代物じゃない、ある人の写真なのだがねぇ。君よりほかに買い手はないんだ。どうだ高く買わないか」
 久野は、杉村が売りつけようとする品物しなものが、何であるかを感づいたように、チロリと雄吉の方を一瞥した。久野は、明らかに不快ふかいを感じているらしかった。恋にあせっている久野には、もう芝居気しばいぎを出すような余裕よゆうは少しもなかったのだ。「ああ買おうとも、それで幾何欲しいというのだ」と、いう位の冗談も、言い得る余裕がないらしかった。久野は、ムッとしたまま、黙り込んでしまった。くまでも、強気つよきな杉村は、こうなると益々ますます上手うわてに出た。 *
「君が入用いりようでなければ、何処かほかへ売り込もうかな、僕達も、ゼヒ君に買ってもらいたいのだけれど」と言いながら、久野のムッとしていることなどは、まるで眼中がんちゅうにないように済ましていた。雄吉は、久野がちょっと可哀想になった。雄吉は、杉村のように久野を焦らしたりしないで、写真を素直すなおに渡してやりたかった。杉村を誘った為、自分の久野に対する好意が、丸きり台無だいなになったことを、雄吉はちょっと後悔こうかいした。
「そうだそうだ。代物しろものを君に見せないので、君は欲しがらないのだろう。そら、見せてやろう、これだよ。これでも欲しくないかい」と、言いながら杉村はポケットから、妙子さんの写真を、一枚取り出して、久野の前に置いた。それを見ると久野は、カッとなってしまった。久野に取っては、神聖な恋人の写真を、悪戯の題材だいざいに使われたのが、堪らなかったのだろう。
「僕は、こんなものはらないよ」と、言いながら、写真をパッとはげしく払い退けた。


二四

 久野が、手もつけられない程、ムキになって憤慨ふんがいしてしまったので、雄吉は、
「おい久野、そう憤らないでもいいじゃないか。この間、君に頼まれた写真が、今日出来たんだ。そんなに憤慨しないで、しまっておけよ」と、久野を、すかように言った。が、久野は雄吉が、写真を直接ちょくせつ久野に渡さないで、杉村を仲に入れて、こうした悪戯をやらしたことを、かなり恨んだらしく、黙り込んだまま返事をしなかった。杉村は久野を揶揄い続けることを止めなかった。彼は、久野が焦れれば焦れるほど、平然へいぜんと取り済していた。
「木村が、一枚五円でなければ、駄目だというのだが、僕が仲介ちゅうかいをして三円にしてやるから買っておけよ。ほかじゃ買えない代物だよ」と、相変あいかわらずニヤリニヤリと笑っていた。
「どうせそうだろう」と、久野は吐き出すように「木村も、探訪たんぼう記者なんかをやり出してから、根性こんじょうが汚くなったな」と、言った。
 それを聞いて、雄吉も不快になった、兼々かねがね、自分も新聞社に入りたいと言っていた久野が、雄吉に対して、殊更ことさらそういういやしい言葉を使ったのは、彼が腹立ちまぎれの侮辱で、深い根底こんていのある言葉とは思わなかったが、しかし親しい友達から、そういう言葉を浴びせかけられたことを、雄吉はかなり心外しんがいに思った。
 殊に、雄吉は久野をこの写真に依って、いじめたり、焦らしたりする気は、少しもなく、ただ杉村の発意はついに従っているばかりであるのに、久野がかどを取り違えて自分に――写真を持って来たことについて、当然感謝を受くべきはずの――自分に、喰ってかかるのを心外に思った。彼はもうこの上、杉村の悪戯に、いて行く気はなくなった。
「僕は、金の事なんか言いやしないよ。僕は約束やくそく通り写真を持って来てやったんだ、らなきゃ持って帰ってもいいぜ」と、雄吉も憤然ふんぜんとして言った。
「君が、狂言きょうげんうらいちゃ駄目だよ。とうとう金にしそこなった」と杉村は雄吉の方を見て、笑いながらふところから、もう一枚写真を取り出した。
 その時の不快は、久野の家を出て、芝の下宿に帰って来る時までも、雄吉の心の中に残っていた。彼は、杉村の妙な悪戯から、自分が不当な侮辱を受けたことが、かなり災難のように思われた。
 それにしても、どうして、あんなに久野を怒らせるまで、焦らしたのだろう。あの悪戯は、実際悪戯の為の悪戯なのだろうか。*普通の悪戯にしては、あまりネチネチし過ぎてはいないだろうか。そう考えて来ると、雄吉の頭の中に、いつかの久野の言葉がマザマザと浮んだ。「妙子さんは、杉村に惚れているらしい」。が、杉村は妙子さんの事を、何とも思っていないと、久野は信じようとしている。が、それを誰が保証し得よう。当人とうにんの杉村自身でも、自分の心にそうした保証は、くだし得ないかも知れない。久野が若いように、杉村も若いのだ。久野の心が感じ易いように、杉村の心も感じ易いのだ。

二五

 妙子さんと、久野と杉村とで、形作っている三角関係が、その後どう発展はってんしているかということが、気がかりになりながらも、雄吉は、久しく久野や杉村と逢わなかった。
 雄吉は、その頃自分自身の結婚問題に、気を取られていた。それは、ありふれた平凡へいぼんな結婚問題であった。自分の容貌に、少しの自信も持っていない雄吉は、久野などのように恋愛を、漁ろうと思ったことさえなかった。久野も雄吉も、容貌に自信のない点に於いては、同じであるのだが、女性に対する態度には、格段の相違があった。久野が、いろいろなを感じながら、いつも異性を辿たどっているのと反対はんたいに、雄吉は自分が異性から、何等の注意をく資格がないことを、信じていたが故に、逆に異性に対して冷淡に出ようとした。従って、彼の結婚問題も、まだ顔さえ見たことのない自分の郷里のある娘との、至極しごく月並つきなみな、人を介しての縁談に過ぎなかった。が、久野のように異性や恋愛を、過重かじゅうしていない雄吉は、こうした手軽てがるな結婚にも十分満足していた。相手が処女であり、純良であるならば、どんな月並な習慣的な結婚をしてもその間に本当の愛が生まれないことはあるまいと思っていた。 彼は、四月になれば結婚の式を挙げる為、帰省することになっていた。  三月の終りの二十八、九日頃であった。雄吉は、杉村から一通いっつう手紙てがみを受け取った。それは、いつものように、簡単な用事を書いたハガキではなかった。

   拜啓はいけい
僕は、いろいろなことが、嫌になったから、しばらく東京を去ろうと思っている。雑誌×××の編集は、スッカリ君に頼む。借金しゃっきんわけをしたり、更正こうせいをしたり、本屋とのつまらない掛合かけあをしたりすることは僕だけの責任だとは思わないから。活版かっぱん屋の手代てだいが、今日金の催促さいそくに来たから、木村さんの所へ行けと言っておいたから宜しくはかってくれ。
                 杉  村   淳
   木 村 雄 吉 様

 雄吉は、杉村の手紙を見ると、軽い不快を感ずると共に「どうかしたのだな」と思った。編集が嫌になったからと言って、雄吉に引継ひきつをするのなら、こうしたぱなたような文句もんくは書かなくってもいいと思った。殊に、杉村がやっている会計かいけい現状げんじょうを少しも、説明しないで、雄吉に借金の言い訳をさせようとすることを、かなり不当だと思った。そう思うと、こうした棄鉢すてばちな、挑戦ちょうせん的な手紙を、雄吉に投げつけながら東京を去ろうという杉村の心のうちを、考えずにはいられなかった。何かのむしゃくしゃ﹅﹅﹅﹅﹅﹅から、こうした手紙をかいた杉村の心のうちを、考えて見ずにはいられなかった。それから東京を去るという杉村の行動についても、ちょっとした不安を感ぜずにはいられなかった。雄吉は、とにかく久野の所へ行って、様子を訊いて見ようと思った。

二六

 その晩、雄吉が西片町の久野の下宿を訪ねると、久野ははればれしい顔をして、「やあ! よく来たね」と、雄吉を欣び迎えた。久野の顔を、一目見ると雄吉は、久野がかなり大きい幸福こうふくに見舞われていることが判った。
 「どうしたのだ。馬鹿に景気が、よさそうだね。何かいいことがあるのかい」
「なに別に大したこともないのだが」と言いながらも、久野は心の中の喜びを、スッカリ顔面がんめんにさらけ出したように、ニヤリニヤリと笑っていた。
「どうしたのだ。何かいいことがありそうだね」
「いや、実は例の事件じけんが急に発展してね」
「発展したと言って、どう発展したんだ。妙子さんの心を獲たというのかい」
「いや、それとは少し訳が違うが、僕も先生の家で直接妙子さんに、うちあけるなどいうことは、この場合穏当おんとうじゃないと思ったから、奥様に打ちあけたんだ。『妙子さんを下さいませんか』と言って、その方が合理ごうり的な手段しゅだんだと思ったから」
「そうか、そいつは大出来おおできだ。君がそれほど積極的に出ようとは思わなかった」と、言いながら、雄吉も心の中で久野の突き詰めた手段を是認ぜにんした。
「それで、奥様は何というのだ」
「ところが、奥様の答えが、案外あんがいだったのだ、僕はキッパリと拒絶されるのを予期よきして、それを機会きかいに、妙子さんのことを、諦めようとさえ思っていたところ、奥様の答が丸きり予想よそう外なのだ。『妙子さえ承諾しょうだくすればあげてもいいよ』というのだ」と、言いながら久野はかなり興奮した顔つきをした。 「それで妙子さんは、何というのだ」と、雄吉もちょっと興奮して訊いた。
「妙子さんは、いいとも嫌だとも、言わないのだ。しかし黙諾もくだくの形なのだ」
「それじゃ君、大成功じゃないか。そりや、君の為に祝盃しゅくはいを挙げてもいいね」
「それで、奥様がいうのは『あなたも学校を出たばかりだから、もう一、二年勉強して作家としても相当のものになれば、妙子をあげてもいいよ』ということになったのだ。つまり、夫までは妙子さんの夫の候補こうほ者として、試験されるような訳なんだね」
「それじゃ君。もう八分通りまで、成功したと言ってもいいね。僕は、そんなに君が手軽に成功するとは思わなかった」
「僕も、全く意外いがいだったし、杉村なんかも、そんなことをしても、とても駄目だと言ったのだ。実は、僕も当って砕けるつもりで、やって見たんだ」
「そうだそうだ、僕は杉村のことで来たんだが、あいつ僕のところへ、憤慨したような変な手紙をよこしたよ。×××の編集が、嫌になったというんだ。一体どうしたのだろう、東京を去るとかいてあったが、何処へ行っているのだ。」
「ああ、君の所へも、そんな手紙をやったのかい。僕も、ちょっと杉村のことを心配していたのだ」と言いながら、久野の今までの晴々しい顔を、少し曇らせた。*

二七

 杉村の話が出ると、少し顔を暗くした久野は、こんな事を話してよいかどうかと、少し躊躇したようであったが、
「いや、実は一昨日おとといの晩、僕と杉村と松本の奥さんと三人で、帝劇ていげき長唄ながうた大会たいかいを聴きに行ったんだ。奥さんは、長唄が大好きでああした会には、ほとんど欠かさず行っているのだが。実は、その晩僕は奥様から、妙子さんについての返事を聞く筈になっていたのだ。奥さんが妙子さんの本当の心持ちを訊いて、僕に返事をしてくれる筈だったのだ。僕にとっては、記念すべき晩だったのだ。長唄を聴くなんていう気持ちは僕にテンでなかった訳なんだ。それで彼処あそこの一等席に、奥さんを真中にして、僕と杉村とが両側に腰をかけたんだが、奥さんは時々僕の方を振り向きながら、小声こごえで返事をしてくれたんだ。その返事というのが、今話した通り、思いのほかに有り難い、好意的なものだろう。僕は、まるで有頂天うちょうてんになって、長唄などは全く耳には入らない訳なのだ。それで僕もしんみりとしてしまって、いろいろ今後こんご方針ほうしんなどを奥さんに話したものなのだ。*周囲に、沢山の見知らない人がいる中で、小声でああした重要な話をすると、却って変に緊張するものだね。無論、杉村は傍で聴いていたが、僕の親友だし、今度の事件は初めから知り抜いているから、奥さんも少しも気を置かなかった訳なのだ。僕も、むろん自分の思いがけない幸福に陶酔とうすいしてしまって、杉村のいることなどは、スッカリ忘れていたのだが、杉村が何かの機会に小さいせきをしたので、気がついて、奥さんをへだてて杉村の顔を見ると、どうだろう君。杉村は両方の眼に、一杯涙をたたえているのだよ。僕は、それを見た時に、ちょっと水を浴びせられたような心持ちがしたよ。その晩杉村は、それきりほとんど、口を利かないのだ。帰りに奥さんと別れて、本郷へ帰って来る電車の中で、「友達も始終しじゅう一緒に顔を合せていると、顔を見るのも嫌になるよ」とたった一言言ったばかりなのだ。それで、昨日の午前あいつの下宿へ寄って見ると、旅行して居ないというのだ。僕も少し変だと思っていたのだ」と、言いながら久野は口をつぐんだ。杉村の行為を、正当せいとうに解釈することは、彼にとってあまりにも苦しいことであったのかも知れない。
 雄吉は、杉村が高等学校時代に、思索しさく的な青年に有り勝ちな、人生観上の苦悶に囚われて、時々「死ぬ死ぬ」と、言った言葉が、ふと心に浮かんだ。
「どうも杉村の態度にも、に落ちないことが、いろいろあったよ。僕に、奥さんに訴えたりなんかしても、とても駄目だということを、力説りきせつするのだ。今から考えるとこんなに容易に承諾してくれることを、杉村がどうしてあんなに断念だんねんさせようとしたかが僕には判らないよ」と、久野は杉村の行為を考えて、暗い心持ちになりながらも、それでも成功者としての得意を、時々振り廻した。
「もし、杉村が君と同じように、妙子さんを思っていて、帝劇で君と奥さんとの話を聞いて、絶望の涙を流したのだとすれば問題だ。今度の旅行もちょっと心配になるね」
「僕は、そうではないことを祈っているのだ。僕はそれを怖れたから、君も知っている通り、妙子さんに恋をする前に、あれほど杉村に念を押したのだ」*

二八

 久野が、杉村から「僕は妙子さんをどうとも思っていない」という言質げんちを得て、それを金科玉条きんかぎょくじょうのように、振りかざして、いつまでも杉村が、この言質通りに、人間の心の微妙びみょう奥底おうていに於いてまでも、その言質通りにあらねばならぬように、考えていることは、雄吉には少し可笑しかった。
 杉村が、久野に意中いちゅうを訊ねられた時、実際彼は、妙子さんを、どうとも思っていなかったかも知れない。が、杉村にとっても、妙子さんは、彼が今まで接触した女性の中では、純粋な清麗せいれいな最初の処女であったかも知れない。しかも、久野の言葉によれば、久野よりも杉村により親しんでいるとすれば、杉村がその親しみに対して、反応はんのうして行くということは、有り勝ちな、尤も自然なことであった。久野に、与えた言質の為に、杉村の心の底深く、育って行く感情の芽を、杉村が自らかえりみて、摘み捨てることは、人間としてかなり不自然な、かつ至難な事だと思われた。
 雄吉は、久野の話を聴いていると、杉村の心に対していだいていた想像が、段々実在性を持って来るように思われた。
「しかし、僕はそんなことは、まさかあるまいと思っているのだ。僕と杉村の間だから、一言言ってくれさえすれば、僕は最初から妙子さんに恋したりしないんだ。杉村が、自分の恋を隠していたとすれば、僕のためにも、杉村の為にも悲しむのだ。この先、僕達の間に、どんな悲劇が起こるとしても、それは杉村の責任なんだからね」 と、久野は少しく自分を弁護べんごするように言った。 「しかし君は、妙子さんに恋することを、君一人の先取得権せんしゅとっけんか何かのように思っているね。法律ほうりつの問題じゃあるまいし」と、雄吉は冗談じょうだん半分はんぶんに久野をじった
「いや、しかし君、杉村のことは、何でもないと思っているのだ。あいつこの間中から、国の両親との関係が非常に険悪になっていたし、それに神経衰弱しんけいすいじゃくもかなり重くなっていたので、ついつい旅に出る気になったのだろう。いや僕は何でもないと思うのだ。尤も、僕が余り手軽に成功したので、少しはうらやましかったかも知れないが。」と、久野は杉村の心に対する疑いを、打ち払おうとして、極めて元気にそう言った。
 そう言えば、久野のいう通りかも知れないと雄吉も思った。
「僕も実は、結婚する為に、二、三日のうちに国へ帰ろうと思っているのだ」と、雄吉は、自分の事を思い出して言った。
「ええ君が、そいつは驚いたな」と、久野は誇大こだいな表情をした。
「なに、簡単に結婚するのだ。見合いもやらないのだ。僕は、とても君のように恋愛結婚ラブマッチなどはやれないからな」と、雄吉は少し皮肉ひにくな心持ちで言った。
 久野はちょっと苦笑したが、
「並河も許嫁いいなずけが定まっているし、君はすぐ結婚だし、君達は皆幸福だな」と言った。が、雄吉は、久野の言葉の裏に「君達の結婚は、手軽な出来合できあの結婚だ、俺が近き将来しょうらいの結婚は、本当の恋の上に築かれた特別上等の結婚だぞ」と、いう誇りを直截に感ずることが出来た。
 雄吉が、その晩下宿に帰って見ると、杉村のハガキを見出した。それは、相模の三浦三崎から出したもので、四、五日して東京へ帰るという平穏無事へいおんぶじな手紙であった。やっぱり、何でもなかったのだと思うと、雄吉は狐につままされたように呆気あっけなく思った。

二九

 雄吉は、郷里から新しい妻を伴って帰ると、麻布の霞町に間借まがをして、そこにささやか﹅﹅﹅﹅な家庭を持った。恋愛の伴わない出来合いの結婚生活でも、そこに感ぜられる幸福は、そう安手やすでな不純なものではなかった。はげしい仕事と、新しい生活の楽しみとの為に、彼は余り杉村や久野とも会わなかった。が、久野の恋愛事件ラブフェアの発展には、当人から訊いたり、他の友人から聴いたりして、絶えず注意をおこたなかった。久野が予想もしなかったような多くの障害しょうがいが、久野の恋をおびやかし始めていた。先輩の門下生のほとんどすべてが、久野に烈しい反感を持ち始めた。「久野君なんて、よく行って高級こうきゅう通俗つうぞく作家だ」などという先輩の悪口が、雄吉の耳にまで入った。彼等は、恩師の家の一大事でもある様に、妙子さんの女婿じょせいの候補者としての久野を、厳しく排斥はいせきした。そうした排斥の炎が、燃え狂っていた時であった。松本家へ匿名とくめいの人からの一通の手紙が舞い込んだ。これは久野を中傷ちゅうしょうする手紙であった。久野自身までが、忘れてしまっていたような久野の過去の誤ち、放蕩ほうとう、恋愛、放埒ほうらつ、道徳的罪悪ざいあくが、一つ残らずあからさま剔抉てっけつされていた。その事実の多くを、雄吉さえ知らなかった。それは、久野自身の分身ぶんしんでなければ知らないような、一身上いっしんじょうの秘密をさえ洩らしてはいなかった。それは、つたな女文字おんなもじで書かれていた。あたかも久野から傷けられた女性が、復讐ふくしゅうのために書いたような体裁ていさいよそおわれていた。それが、何人の手に依って書かれたかは、永久に疑問として止まった。*
 久野の言葉に依れば、「姐御情調のある」松本夫人は、門下生達の反対に逢うと、その任侠にんきょうな性質は却って、久野を庇護ひごした。そして、久野を激励げきれいした。修養しゅうようをして、いい創作をしろと言ったような言葉が、幾度も繰り返されたらしい。学校以来のなまもので、原書げんしょなどはほとんど手にしたことのない久野が、この頃になって急に、本などを持ち廻っていることが、雄吉には神妙に思われるのと同時に、滑稽こっけいにも思われた。
 中傷の手紙が――それは、松本家ばかりではなく同時におもだった門下生の所へも配達はいたつされた――来た時にも、松本夫人は出来るだけ善意に解釈しようとした。夫人は、その手紙を久野に見せると共に、「過去の事は問わない」と言って久野を感激させた。
 とにかく、久野は幸福であった。まだ定職ていしょくを持たないで、わずな原稿りょうで生活していた貧乏びんぼうな久野は、松本夫人の好意で、銘仙めいせんそろいなどを着始めるようになっていた。
「何だいい着物きものを着ているな」と、雄吉がいうと、
「どうだ全盛ぜんせいだろう」と、久野は得意になった。何か、少しでも嬉しいことがあるとすぐ得意になる久野ではあるが、この頃の彼の得意はそう無内容な得意ではなかった。彼は、物が正当に進行しんこうさえすれば、得るに定まった恋に揚々ようようとして誇っていたのだ。*

三〇

 門下生の人達の反対を浴びながらも、久野はかなり幸福であるらしかった。四月五月とかいた久野の創作が、そのいかがわしい題材の為に――それは、例の中傷の手紙の内容を久野自身が、裏書うらがしているような恋愛事件を取り扱ってあった――かなり烈しい物議ぶつぎかもていたのにも拘わらず、久野はかなり幸福であるらしかった。
 その幸福の最高潮クライマツクスは、久野の戯曲が、帝劇で上演じょうえんされた時だったろう。それは、新しい劇団げきだんに依ってもよおされた二日だけの試演しえん的な上演ではあったけれども、若い作家の努力が、帝劇という日本で一番立派りっぱな劇場の脚光フツトライトを、浴びるということは何という晴々しい事だったろう。
 上演の四、五日前であった。珍しく久野は、雄吉を新聞社に訪ねて来た。
「何だか、自分の芝居が舞台ぶたいに登るとなると、ソワソワして落ち着かないよ。君には是非来てもらうのだね。君の妻君さいくんも来てくれないかなあ」と言いながら、招待しょうたい切符きっぷを二枚くれた。
 初日しょにちの夜に雄吉は、一人で帝劇へ行った。久野の芝居の第一幕は開いていた。雄吉は、女の給仕に案内されて、二階一等席の第一列の席に着いた。ふと、気が着くと、自分の席の四、五人目向こうにいるのは久野であった。その手前にいるのは、見覚みおぼのある松本夫人であった。久野の向こう側に、鼻筋の美しく通った白い横顔を見せながら、じっと舞台を見詰みつめている若い女性は、その顔の輪郭から考えても、久野の恋人たる妙子さんに、相違ないように思われた。
 雄吉は、久野の幸福がちょっと羨ましかった。自分の恋人に、自分の芸術を見せている。ただそれだけではない。自分の芸術が、この広い劇場に充満じゅうまんしている多くの人々を如何に動かし、如何に感嘆かんたんせしむるかを見せてみる。見物けんぶつ席の一角いっかくから、波動のように拡がって行く拍手はくしゅが、あらしのように場内につる時、雄吉は久野のどちらかと言えばみにく顔が、かがや出すように思われた。作家として、何という得意であろうと思った。恋う人として、何という欣ばしさであろうと思った。
 第一幕が終ると、雄吉は廊下で、久野達とあった。夫人と妙子さんと杉村と、もう一人山岸という若い門下生と五人連れであった。雄吉は、妙子さんとは初対面であった。が、妙子さんは雄吉の噂を、幾度も聞いていたのであろう。雄吉と顔を見合わすと、微笑を含みながら目礼した。雄吉は、その態度に処女らしいやさしさを感じた。
 久野は連れと別れて雄吉の傍へ来た。
「どうしたのだ、君一人かい。細君さいくんは、どうして連れて来ないのだい」
「田舎者で、芝居なんかちっとも、見たがらないのだ。まして、君の芝居なんか解りっこないよ」
「いや、実は妙子さんが新婚しんこんの君達に逢いたがっていたんだ」
「そんな所を見ようとしたって、そううまくは行かないよ」
「いや、本当に妙子さんは君の細君に逢いたがっていたのだ。どうせ、僕と結婚すりゃ、君の細君とは是非とも知り合いにならなければならないのだからね」
 雄吉は、「久野の奴、いい気になって居やがる」と思ったので、何とも返事をしなかった。*

三一

 久野が彼の恋のを達して、松本家へ繁々しげしげ出入するのに連れて、杉村も同じように松本家との親しさを加えていった。その上、いろいろな実務じつむに当たると久野はどうしても杉村の敵ではなかった。何処となく頼もしい、何処となくキッチリとした杉村の性格は、夫人の深い信頼を得てしまっていた。家事上の大切な要事ようじになると、夫人は久野を差し措いて大抵は杉村に頼むらしかった。
 杉村は久野や雄吉などよりも、一年遅れて今年の七月に大学を出た。大学を出て暫くすると、杉村は故郷こきょうへは帰らないで、本郷の下宿を引き払って、松本家の厄介やっかいになることになった。その事はかなり雄吉には意外に感ぜられた。松本家が少しも男手のない為に不自由ふじゆうを感じていた事は事実であった。が、男手という意味なら、杉村より久野を、――妙子さんの女婿として、ある程度まで許してあった久野を、迎えるべきではないかと思った。久野は、雄吉にそうした意味いみの質問を受けると、
「いや、僕じゃ小島さんや井上さんなどの連中が、とても承知しょうちしないのだ。そこへ行くと杉村は得だよ。あいつの存在は何となく灰色はいいろがかって居て、松本家へ入り込んで居ても、少しも目触めざわにならないのだ。それに、杉村は国の両親と喧嘩けんかをしているのでちょっと困っていたから丁度よかったんだ」と、弁解した。が、雄吉は、夫人の信頼が久野よりも杉村の上に、段々濃くなりかけているのを見て、久野の恋の前途ぜんとに対して、妙な不安をいだかずにはいられなかった。
 その上、杉村が――久野が最初自分の相手として怖れていた杉村が、妙子さんと絶えず接近して生活しているということは、久野にとって、かなり苦しい事でなければならぬと雄吉は思った。
 八月が過ぎて、九月が来た。その間、久野は一週間に二、三度は、必ず松本家を訪うているらしかった。十月になってから、久野は六、七月の彼とは、全く別人であるように悄気切ってしまっていた。雄吉は、久野と妙子さんとの間が、どう発展して来たかということも余り知らなかった。久野と杉村と妙子さんとが作っている三角関係が、どういう色彩しきさいを帯びて来たかという事も知らなかった。
 が、そのうちに久野は文壇的にはかなり目覚めざましい出世しゅっせをしていた。中央の文壇で一番有力な雑誌にも、続け様に創作を発表はっぴょうしていた。が、うわすべりのした人気を煽り立てた割合には、彼の創作は文壇の識者しきしゃ階級かいきゅうの認むる所とはならなかった。或る方面からは、濫作らんさくそしさえ受け始めていた。
「久野君は、うまく行っても高級な通俗作家だ」と、久野の作家としての素質そしつに、ケチをようとした人々は「それ見ろ」と、言わないばかりの口吻を洩らし始めていた。
 松本夫人や妙子さんの久野に対する心持ちが、どう変化していたかは雄吉には解らなかった。が、久野の松本家へ出入する様子には、六月頃の彼に見たようないそいそ﹅﹅﹅﹅とした得意気な面影は、少しもなかった。妙に、いらいらして興奮して焦って、三日にあげず松本家へ通っているらしかった。あたかも、自分の掌中しょうちゅうに掴んだと思っていた希望の綱が、烈しい勢いをもっ、彼の手からいっ去ろうとするのを、全力ぜんりょくを尽くして、取り止めようと悶えているように。

三二

 十一月になってから、雄吉は牛込の西江戸川町に引越した。引越したと言っても、やっぱり前と同じ間借り生活であった。
 引越してから幾日目であったかは忘れてしまった。それは、秋が段々冬に移りかけて行く晩秋ばんしゅうの一夜であった。空には星が輝いていたが、夜は非常に暗かった。七時頃に新聞社から帰って来た雄吉は、平素よりも疲れていた。ささやかな晩餐ばんさんを済ませると、雄吉は湯に出かける元気もなかった。
「平素よりも少し早いが、寝よう」そう言いながら、彼は妻に床を取らせようとした。その時に、母屋の玄関を訪れる声が聞えた。聞き馴れた声だと思った。
「お宅に木村という者がりませんか」
「ハイ居らっしゃいます。門をお出になって四、五間右へいらっしやいますと、別に入口がありますから」そう言って、母屋の主婦が答えていた。
 ああ久野が来たのだなと雄吉は思った。開閉の悪い戸をガタガタと言わせながら、久野が入って来た。引越しした時にちょっとハガキを出したので松本家へ行くついでにでも、寄ってくれたのだと思った。
「やあ」と、久野は植込の闇から、声をかけた。
「やあ。今母屋の玄関で、君の声がしたから、君が来たのだと思っていた。さあ、上りたまえ、随分汚い部屋だろう」と、雄吉は何一つ装飾そうしょくらしい品の置かれてない部屋を気恥しく振り返りながらそう言った。
 部屋へ上って来る久野を見ると、それは平素の久野とは、似ても似つかないように悄気切ってしまっていた。
「どうしたのだ。松本さんへ行く道にでも、寄ったのかい」と、雄吉はちょっと揶揄い気味ぎみにいうと、
「ウムいや」と、言って久野はうつむいたまま黙っている。
「どうしたのだ、馬鹿に元気がないね。何か悲観することでも出来たのかい」と、雄吉が追窮ついきゅうしても、久野は立てた片膝かたひざに両手を置きながら、じっと考え込んでいる。平素は、赤みを帯びている久野の顔が、土気色つちけいろ蒼味あおみを帯び、「俺の眸だけは澄んでいるだろう」と、久野が時々自慢にする二つの眸は、光を失ったように暗く、唇の辺りにはかすかな痙攣けいれんをさえ、起こしているように見えた。
 雄吉は、久野の顔を見ていると、もうすべてが判ったように思った。久野ほど、心のうちに起こるすべての感情を、色に表すものはなかった。あの元気などちらかと言えば、楽天主義らくてんしゅぎな久野が、これほど悲痛な顔をするからには、彼の心は堪えがたき苦悶のうちのたうっているのに違いないと思った。
「どうしたのだ。妙子さんの件で、何か事変じへんでも起ったのかい」
 久野の沈黙ちんもくを、じっと見詰めていた雄吉は、ちょっと辛抱しんぼうがしきれなくなって、訊いて見た。
「事変どころじゃない。妙子さんを、永久に失ってしまったのだ」と、そういうかと思うと、今までじっと抑えていた感情に、やっと小さいけ口を見つけたように、その涙にうるんだ眸を上げて雄吉の顔を初めて正面しょうめんから見た。

三三

 久野の投げ出したような絶望的な言葉――言葉というよりも悲鳴と言ってもよい――を聞くと、雄吉もかなり烈しい感動を受けずにはいられなかった。久野の恋に対する色々な悪口――久野は妙子さんという人その物に恋しているのではない、文豪松本藻石の娘という後光ヘイローに恋しているのだとか、松本家の豊かな物質生活の背景はいけいに恋しているなどという悪口――にも拘わらず、雄吉は久野の恋の清浄せいじょうさだけは、信じていた。その久野が、闘いに負けた闘犬とうけんのように、雄吉の前に絶望的な悲鳴を揚げている。雄吉は、何と言っても久野の恋の同情者であっただけに、かなり自分の心をいたましめずにはいられなかった。
「妙子さんを失ったって、それや君の思い過ごしじゃないか。君は、ちょっとした事件を悲観して、そう絶望的に考えているのじゃないか」
「いやそんななまぬるい失い方ならいいのだが、徹底てってい的に宣告せんこくを下されてしまったのだ」
「宣告を下されるって誰からだ」
「奥さんからさ。実は、たった今の事なんだ。今日、松本さんから電話がかかって、用事があるからちょっと来てくれというものだから、行ってみると、奥さんから突然とつぜん宣告されたのだ。『都合つごうによって、妙子をやってもいいと、言っておいたが、あれは取消とりけたから、そう思ってくれ』というのだ」
「一体どういう理由でだ」雄吉はかなり興奮していた。
「理由は、いろいろあるというのだが、最近の理由は、僕が「新声」に発表した『一事件』という小説がいけないというのだ」
「あああれか」と、雄吉は答えたが、『一事件』に対する松本さんの門下生達の悪評は雄吉も人伝ひとづに聴いていた。それは、久野が、妙子さんに関するある事件を書いたもので、冒頭は「自分は平素のように、婚約こんやくの出来かかっているT子の家を訪ねた」という文句で始まっていた。その文句が松本夫人の心持ちを、かなり傷つけているらしかった。
「婚約の出来かかっているなどという事を、おおやけに発表されては困るというのだ。実際婚約などというような具体的ぐたいてきな事は、ちっとも出来ていないのに、そういう誤解ごかいを世間から、受けては妙子さんの将来にも影響すると、奥さんがいうのだ。」と、久野は沈んだ低い声で言った。
「そんな事は、下らない理由じゃないか。奥さんが、誠意せいいを以て君にくれようと思っていれば、その位な事を小説に書いたって、いけないという理由はないじゃないか」
「無論、これは表面の口実なんだ。表面の理由なんだ。奥さんの心は、とうに僕を去っているのだ」と、久野は吐きだすように言った。
 そうに違いないと、雄吉も思った。が、それにしても、約束を破るのには、もう少し相当な理由が、なければならないと思った。
「それにしても、余り理由が薄弱はくじゃくじゃないか。もし、向こうに誠意があれば、その位な事は、君の失策しっさくとして、許してくれても、よさそうじゃないか。そんな僅かな事を、咎め立てするには当たらないじゃないか」
「いや、それだけじゃないんだ。僕が、作家としての末の見込みこがないというのだ」
「誰が、そんな事を断言だんげんするのだ。君の未来みらいにまで、ケチを付けようとするのだ。そんな事を、奥さんに言い付けたのは誰だ」雄吉は、かなり激昂げっこうしてしまった。

三四

「この頃書く僕の物が、ちっとも世評せひょうが立たないというのだ。そういう事で、僕の作家としての未来を否定ひていしようとしている」と、言いながら、久野も暗然あんぜんとしてしまった。
「世評! 世評なんていうものは、気にしなくってもいいのじゃなかったのか。奥さんは君に、小遣こづか位はやってもいいから、自重じちょうして余り書くなと言っていたのじゃないのか。それだのに、今更いまさら世評がどうのかうのなんて、言えた義理ぎりじゃないじゃないか。世評で、その作家の本当の価値を定めようなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるもんか。世評なんていうことを言えば、松本さんだって、自然主義全盛の時は、散々な世評だったぜ。松本さんの小説は、高等学校の生徒の読む伽話とぎばなしだなんて言われたことがあったぜ。が、本当に芸術の価値があったればこそ、立派にそうした世評を踏み倒してしまったのだ。君の作品に世評が立たないなんて、そりや九月の月評の事を言っているのだろう。九月の月評は、草田さんがやったのだろう。あの人は君に対する妙な反感から君の作物さくぶつを黙殺したのだとも考えられるじゃないか」と、雄吉はかなり興奮してしゃべった。草田というのは、松本さんの門下生の一人で、久野に対して、かなり烈しい反感を持っていると言われていた一人であった。
「とにかく、奥さんの心が変わったのだからな」と、久野は長太息ちょうたいそくをした。それには、雄吉は同感であった。久野の恋が、ある程度までの成功をちえたのは、全く松本夫人の同情であった。門下生達の烈しい反感を、しの得たのも、全く夫人の侠気きょうき的な同情の為であった。夫人は久野の恋に対する唯一ゆいいつの庇護者であった。その夫人が、久野を見放したのであるから、久野の恋にとっては、そこに深さの知れない濛々もうもうたる闇黒あんこくが横たわるだけであった。
「奥さんの心が変わったからと言っても、君にそうした宣告を下すには、もう少し何か確かな理由がありそうなものじゃないか。」
「いやもうほかには、何もない。大きな理由は、それだけなのだ。もっとも僕が妙子さんと杉村の間を、妙に疑って嫉妬しっとしたのがいけないというのだ」と、久野は首をうなだれた。
 雄吉は、久野の言葉を聴くと、夏以来怖れていた事が、マザマザと実現していたことを知った。この一、二箇月来の、久野の焦り気味のいらいらしさ﹅﹅﹅﹅﹅﹅の正体が、スッカリ判ったように覚えた。こうなれば、久野の失恋しつれん単純たんじゅんなる失恋ではなかった。恋人を自分の手から失うだけではなく、自分の手から他人の手へかすって行かれるという、あのしょうの悪い失恋であったのだ。雄吉は、久野のうなだれた顔を見ながら、自分も暗然とならずにいられなかった。
「君が、杉村と妙子さんの間を、嫉妬するなんて、二人はそんなにまで、接近しているのかい」*
「僕には、そうとしか思われないのだ。杉村は、最初は僕の恋の同情者で、いろいろ便宜べんぎを計ってくれたから、杉村が松本家へ入っていることは、むし僕の利益りえきだと考えていたが、この頃は全くそうじゃないんだ。妙子さんとも、僕よりはズッと親しくなっているんだ。妙子さんは、僕の前では、ピアノなんかいて聞かせたことがないんだ。だが、杉村の前では絶えず弾いているらしいんだ。しかも君、杉村が後に立って、あの楽譜がくふページめくってやっているんだぜ。杉村は僕とは違って、楽譜なんかも読めるらしいんだ」と、言いながら久野は顔を上げた。彼の眸には、失恋の悲痛と、嫉妬の苦悶とが、アリアリと読まれた。

三五

「それに、この間なんかも僕が行っていると、杉村は僕に対して、いやにつら当たるんだ。おしまいには、早く帰れよがし当り散らすのだ。杉村も、僕と妙子さんとの間を嫉妬しているとしか思われなくなったんだ。それで、僕は余り堪らないから妙子さん宛に手紙を出したのだ。その手紙なんかもいけないというのだ。尤も、僕が匿名で出したのが、不良少年ふりょうしょうねんじみていると言って非難ひなんするんだ。」
「どうして又、本名を書かないのだ。」と、雄吉は言った。が、心のうちでは、久野が自分に不利ふり境遇きょうぐうが重なる度に、血迷ちまよってしまったのだと思った。
「僕も、今から考えると、本名ほんみょうにしてもよかったのだが、本文さえ読めば判ると思ったので、封筒ふうとうを匿名にした為に、ついその手紙が奥さんの手に渡ってしまったんだ。随分ヘマな事をしたものだ。」
「が、君は杉村と妙子さんとの間を、嫉妬するなんて、縦令したにしても、そんな事は決して悪いことじゃないじゃないか。妙子さんに対する君の愛が、熾烈しれつであれば、自然そうした嫉妬も起こって来る筈じゃないか。それを咎めるなんて、随分筋が違っているじゃないか。それよりも、君が嫉妬をするような原因げんいんを、除くようにするのが奥さんとしては当然な処置しょちじゃないか。僕は、どちらかと言えば、君が杉村に対して嫉妬を感じなかったことを、寧ろ感心かんしんしていた位なんだ。自分の恋人と、自分の友人――*しかも競争者ライヴアルとして、怖れている友人とが、同じ家に起臥きがしているということは、僕なら一刻もじっとしてはいられない事だね。その点では、僕は君に感心していた位だ、それを嫉妬するなんて」と、雄吉は興奮して語り続けた。雄吉のそうした義憤ぎふんに似た心持ちが、久野の失恋の苦悶を少しずつ慰めているのは、事実だった。弱い心の久野は、ちょっとした喜怒哀楽でも、自分の心のうちだけでは、処置することが出来なかった。まして、失恋という致命的ちめいてき打撃だげきを受けた彼は、他人からの少しの愛撫あいぶにも渇えていた。
 恋を得ている時は、揚々として勝ち誇っている久野は、一旦つまづくと張りも意地いじも無くなって、雄吉の前にすべてを吐露とろして、わずかの慰撫いぶをでも得ようとしている。雄吉は久野の弱さを憫れみながらも、その人間的な弱さに、動かされずにはいられなかった。
「が、奥さんはそう言ったにしろ、妙子さんは何と思っているんだ。それが問題じゃないか。妙子さんさえ、君に好意を持っていれば、どうにでもなる事じゃないか。」 と雄吉は最後の要点ようてんに触れたように思いながら、そう言った。
「僕もそれだけが、一つの頼りなんだ。実は今日も、奥さんから宣告された時、妙子さんにちょっと会わしてくれと言ったが、会わしてくれないんだ。妙子とは十分相談そうだんしたと言って会わしてくれないんだ。僕もそれだけが、心残こころのこなんだ」と、久野は眼をしばたたいた。雄吉にも久野の感じている失恋の悲哀ひあいがしみじみと味われるように思った。

三六

 久野を、大曲りの停留場まで、送って行った雄吉は、彼と別れると、冷々れいれいと夜の更けた江戸川縁えどがわべりを歩いて行った。
 暗いながら、空は晴れていた。木枯こがらしが、時々川縁かわべりの枯れた桜並樹の枝を、ゆすぶって通り過ぎるほかは、すべてが静かであった。久野と話していた時の亢奮こうふんも、彼の胸から洗い去られていた。雄吉は、彼の頭をおおうている夜の空と、同じような澄んだ静寂な心持ちで、久野の恋の一部始終を、考えてみる事が出来た。
 雄吉は、自分が最初から久野の恋が、敗れるに定まっているというような予想を、持っていたことに気がついた。彼は、久野が夫人から、かなり有望な約束を与えられて、雀躍じゃくやくしていた時にさえ、久野の恋の成就じょうじゅを、信ずることは出来なかった。何処か危なっかしいところがあった。何処か不安な頼みがたいところがあった。彼が、久野の恋の破綻はたんを予期すると言ったような心持ちは、久野に対する悪意でもなかった、他人の恋の成功を羨むという嫉妬でもなかった。ただそうした心持ちがどうしても雄吉の心を去らなかったのである。久野の恋には何処か、不自然な、物がその正当の場所に置かれてないと言ったような不安心な心持ちを、感ぜずにはいられなかった
 今宵こよい、久野が彼の前に来て、失恋の苦しみを訴えた時にも、雄吉はそれに対して、深い同情を起こしながらも、しかし自分の心の奥深く、「ああとうとう、その時が来たのだ」と何者かがささやのを聴かずにはいられなかった。
 彼は、久野が自分と別れて、悄然しょうぜんと電車に乗った時の姿を想い起こした。自分の感情を、グッと踏み堪える力のない久野は、身体一杯に失恋の苦悩くのうと悲哀とを堪えていた。雄吉は、今宵一夜を、眠られない一夜を、輾転てんてんとして悶えぬくに違いない久野を思うと、彼に対する同情と、松本夫人に対する義憤と言ったような心持ちが、再び心のうちよみがえるのを感じながらも、しかもその心の、もう一つ底に「ああとうとう、その時が来たのだ」という何者かの囁きを聴かずにはいられなかった。
 それにしても、久野がおそれた「妙子さんは、杉村を愛しているかも知れない」という想像は、――雄吉も怖れた如く――段々、事実に依って実証じっしょうされて来たように思われた。久野を焦燥しょうそうせしめた妙子さんと杉村の親密さを、雄吉はかなり必然ひつぜん的な物事ものごとの進み方だと思わずにはいられなかった。
 久野に、兎も角も、ある約束――それは確定かくてい的な婚約では決してないが――を与えながら、男手の不自由な為に、杉村を家に迎える。その時にもう、松本夫人の信頼は全く杉村に移っていたのだ。そして妙子さんと杉村とが、同じ家の中に起臥する。その妙子さんは、久野の所謂いわゆる「杉村を愛しているようだ」の妙子さんである。その杉村は人格的な魅力に於いても、家の事務じむを処置するさいに於いても、その容貌に於いても、その挙止きょしに於いても、久野とは比較すべくもなくまさっている、すべては、余りに解り切っていた。ただ時の問題であったのだった。そして今宵「ああとうとう、その時が来たのだ」と雄吉は思った。ただ杉村がどうして友人の恋人と、接触することを避けなかったのであろう。どうして、妙子さんに近づくことを、最初から、友情の為に避けなかったのであろう。が、その理由は雄吉には解っていた。杉村は、大学を出ると、自分の両親と義絶ぎぜつした形で、当座とうざの生活にさえきゅうしていたのだ。松本夫人の厚意こういは、その時の彼にとっては、生活の保証にもなったのだ。*殊に松本夫人の信頼も、それだけで久野に対する友情の為に、裏切うらぎには余りに、大きかったかも知れない。

三七

 失恋の苦しみを、自分の心のうちだけで、踏み堪え得るような強い所は、久野には全く欠けていた。平常へいじょうでも、久野はひとりではいられない男であった。まして、失恋の苦しさを、満喫まんきつしてからは、一晩も自分の家に、ジッとしてはいられないようであった。彼は、雄吉の家へも頻々ひんひんとして訪ねて来た。上野の桜木町に住んでいる矢口の家へなどへも、訪ねて行った。東京を十里も離れている町に、住んでいる並河を、ワザワザ訪ねて行ったりした。誰を訪ねる目的もくてきも、皆同じであった。失恋の苦悩を訴えて、相手の同情や慰藉を求める為であった。巡礼が、軒毎のきごと施物せもつを求めて歩くように、久野は友達の間に、同情を求めて歩き廻った。
 ある晩、それは久野の恋が破滅はめつを見てから、二十日も経った頃だろう。久野は、日が暮れてから間もなく、雄吉を訪ねて来た。もうその頃は、久野が雄吉から、同情を求める材料ざいりょうも、尽きていたし、雄吉も久野に対して発すべき、すべての慰藉の言葉も、使い果していた。
「ああ僕は、とうとう決心した。とても、東京にはいたたまれないから、都落みやこおをしようと思っている。それには、京都や大阪の方は、まだ一度も行った事がないから、こういう機会に彼方あちらへ行って、二、三年生活して来ようかと思っている。その方が、現在の苦しみを忘れるのにもいいし、将来作家として立って行くにも好都合こうつごうだと思うから」と、座に着くとすぐそう切り出した。
「そりやいいことはいいが、君に辛抱が出来るかね」と、雄吉は久野の顔を見詰めた。久野が、現在の心の動乱どうらんと焦燥とを、逃れる為に失った恋人のいる土地とちを避けようとしている、それは普通の意志と感情とを持っている者にとってはこの場合最も適当てきとうした方法かも知れなかった。が、久野には――失恋して以来、友達という友達を訪ね廻って、同情を施物のように求めている――久野には、友達も知り合いも一人も居ない京都や大阪に、半年でもいな二箇月三箇月でも、じっと辛抱していることなどは、雄吉にはとても信じられなかった。
「いや僕だって、いつも弱くはないさ。今度は必ず辛抱するつもりなんだ。第一東京にはどうしても居堪たまれないんだよ」と、ちょっと興奮して言った。
「僕は不賛成ふさんせいだが、君が強いて行くというのなら仕方がないことだ。が、大阪へ行った為に、これきり文壇を失脚しっきゃくしてしまうような事があっては、つまらないぜ。失恋した上に、自分の生涯しょうがいの運命を狂わせたりなんかすると、損の上塗りだぜ。」と、雄吉は言った。
「大阪へ行った為に、これきり文壇からほうむられるような僕なら、東京にいたとても、どうせ仕方がないという事になるじゃないか。それに僕は東京に居て、杉村と妙子さんとの恋が、この上発展するのを、見ているのに堪えられないのだ」と、久野は悲痛な顔をした。
「僕は、それほど杉村と妙子さんとの恋を、必然的なものだとは思わないんだ。たとえ、妙子さんの方から恋をしても、杉村が君に対する義理から、受け容れないだろうと思うのだ」*
「所がそうじゃないんだ。僕はある理由から、もう二人の恋が成立せいりつしていることを知っているのだ」と、久野は吐き出すように言った。
「それなら、尚の事大阪へ行くのはよせ。君が大阪へ行けば、妙子さんも杉村も、天下晴てんかはれて恋をする訳だろう。君が自分で身を退く理由がないじゃないか。そんな弱いことでどうするんだ。頑張って東京に居て、彼等の目触りになる方が、どれほど男らしいか分らないぜ」*
 雄吉は、久野の余りに弱々しい挙措きょそに、少し愛想あいそを尽かしながらこう言った。

三八

 久野は雄吉の言葉を聞くと、暫くは俯いたまま黙っていた。が、漸く顔を上げると、
「いやしかし、僕としてはやっぱり大阪か京都かへ行った方がよいようだ。僕の気持ちの上から言えば、その方がどれほどいいか分らない」と言った。
 そう言っている久野の心持ちは、雄吉にはよく判った。久野は、しいたげられた恋愛の殉教じゅんきょう者のような心持ちで、流人エキザイルのように二、三年を上方かみがたで暮らそうとするのだろう、そして失恋の悲哀をしみじみと味わうとするのだろうと思った。そこには久野らしいロマンチック感傷主義センチメンタリズムがあった。が、それは余りに弱すぎた。それは今の場合一番弱者じゃくしゃらしい逃避とうひであった。
「君が行くというのなら仕方がないが、僕は飽くまでも不賛成だということを言っておくよ。しかし京都か大阪へ行くと言って、何か職業を見つける当てがあるのかい。」
「いやそれで実は君に頼みに来たのだ。君は京都には知り合いがあるだろうから、京都辺りで中学の先生の口でも見つからないだろうか」
「見つからないことはないだろう。が中学の先生なんかをしていると、そのまま腰が坐って、創作なんていうことを考えなくなりはしないかな。それよりも大阪の新聞社はどうだろう」
「いや僕も、新聞社の方が希望なのだ。君の新聞社の江藤さんに紹介してもらえないだろうか」
「そらもらえるかも知れん。江藤さんは、大阪のN社の編集長へんしゅうちょうを知っている筈だから」と、雄吉は答えた。もし久野が本当に都落ちを望み、またその事が久野の為になるのなら、雄吉は十分尽力じんりょくしてもいいと思った。
「じゃ江藤さんに一つ頼んでくれないか、それから中学の先生の口も京都で探して見てくれないか」と、久野は本当に弱者のような口調で頼んだ。少し得意なことがあると、すぐ調子に乗る久野は、ちょっと逆境ぎょっきょうに陥ると、手も足も出ないように悄気てしまうのだった。失恋して以来、極度きょくどいじけ﹅﹅﹅切っている久野を、雄吉はいたましく思わずにはいられなかった。
 雄吉と久野との話がちょっと途切とぎれた時であった。表のくぐが、ガタガタ音をしながら開かれた。今頃やって来るのは誰だろうと雄吉は思いながら、表の方を見た。
「木村いるかい!」と、いう声が闇から聞えた。それはまぎれもない杉村の声だった。雄吉は久野の顔色が、サッと蒼白そうはくに変わるのを気づいた。久野は、例の宣告を聞いた日から、松本家の敷居しきいまたいでいなかった。従って杉村とも、それ以来顔を合わしたことはなかった。雄吉は、ちょっと当惑を感じた。雄吉は、自分の目前もくぜんで親しい友達二人が妙な暗闘あんとうはしないかと怖れた。
「やあ! 杉村かい。今久野が来ているのだが」と、雄吉は言った。久野と杉村との間は、まだ表面へ出た敵対関係ではなかった。が、久野は杉村と妙子さんとの恋の成立を信じている。自分の恋を奪い去った恐ろしい敵手として、杉村を待っている。杉村の心にも、久野の心持ちが、反射はんしゃしないことはないと、雄吉は思った。雄吉は、「今久野が来ているのだが」と言えば、杉村は躊躇して入って来ないかと思った。
「ああそうか」と、こともなげに言って杉村は、家へ上がって来た。*

三九

「君らしい声がしていると思ったのだ」と、久野に向かって言いながら、杉村はゆっくりと座に着いた。宛も、二人の間に何事もなかったように取り済した杉村だった。平素のようにニヤリニヤリと微笑をさえ洩らす杉村だった。久野は杉村が座に着くと、筋肉きんにくことごとこわばってしまったような顔をゆがめて微笑しようとした。が、微笑しようとするのは、久野の意志だけで、顔に表れたものは、子供がベソをかく時のような痙攣的表情であった。
 今の場合、どう考えても杉村の方に、引け目があって、久野の方が昂然と概然がいぜんと、否少なくとも平然と、取り済しているべき筈であるのに、実際は丁度その逆であった。飽くまでも強く出られる杉村であった。どうしても、弱くしか出られない久野だった。雄吉は久野の弱さを軽蔑しながら、しかもその弱さをいとしく﹅﹅﹅﹅思わずにはいられなかった。
 杉村は、何気なにげなく座に着いたものの、三人とも暫くは、しらけた沈黙のうちに坐っていた。雄吉も心のうちで、この場合に適当した話題わだいをと、探せば探すほど、何も話し出す事がなかった。仕方なしに、 「夜などは、随分寒くなったね」と、月並な時候じこうの挨拶をした。が、杉村は、
「うむ、寒くなった」と、言いながら後を続けなかった。久野は心のうちの激動を、じっと押さえたまま黙っていた。が、久野の心を、如何いかなる感情が、噛み苛んでいるかは、その顔の表情が有力に語っていた。
 雄吉は、黙っている久野と杉村を見比べながら、彼等の友情の最後の日が来ていることを思った。*久野と杉村との間は、久野と雄吉、杉村と雄吉の間などに比べるとまた一段深い親友であった。久野と杉村とは、一高時代から、影の形のように交渉こうしょうして来た間柄あいだがらであった。一高時代の寄宿舎きしゅくしゃ生活は、一組宛パールワイゼの親友を作った。久野と杉村は遊ぶにも、喰べるにも、試験勉強の時にも、一組バールとして行動していた。それ以来もう六、七年になる。その間同じ部屋に久しい間、一緒に起臥したこともある。縦令下宿は別れていても、一日の中にどれかが他を訪ねないことはなかった。久野のいろいろな文壇的成功――それがどんなに小さくても、心から欣ぶ者は杉村だった。友情としては、究極きゅうきょくの所まで行っている二人だった。*
 その二人が、今妙な運命の悪戯に遭って、彼等の友情の崩壊ほうかいの、最後のシーンを、雄吉の前に演じているのだ。そう思って見ると、勝ち誇っているような杉村の姿にもある淋しさを感ぜずにはいられなかった。お互いに、もう再び得られない親友を失いかけている。久野の場合の方が、悪いことは勿論もちろんだ。恋人を失った上に、「つけた」として親友、替換たいかんのない親友を失おうとしている。無論、今では失恋の苦しみの方が烈しいので、親友を失くする悲しみなどは、何でもないかも知れない。が時が経つに連れてその悲しみも、淋しがり屋の久野には、しみじみと感ぜられる時が来るだろうと雄吉は思った。*杉村の場合は、久野よりいいかも知れない。親友を失った代わりに恋人を得る。が、恋の代価だいかとして払った友情は、生涯十字架として、杉村が背負わなければならないものではなかろうか。
 雄吉は、二人を前にしながら、今宵を最後の友人的会合として、永久に離れて行くかも知れない二人の事を思った。そして、その二人に――強者たる杉村にも、敗者たる久野にも――共通の悲しみのあることを感じた。*
 内容の少しもない話や、感情の伴わない笑いが――雄吉の仲間では、そんな話を話したり、そんな笑いを笑ったりする必要は今まで、少しもなかったのだが――一時間ばかり続いた後、杉村はていよく立ち上った。
「ああ僕は、神楽阪へちょっと用事があるからこれで失敬する」と、言いながら、庭へ降りようとする時であった。今まで、黙りがちであった久野は、急に立ち上がって、
「おい杉村! 僕も一緒に出よう。ちょっと君に話があるから」と言った。
「ああそうかい」と、軽く答えて杉村は振り返ったが、彼の顔もさすがに緊張した。

四〇

 久野と杉村とが――お互いに友人という形式だけは保っているが――相あいたずさえて帰って行くのを見送りながら、雄吉はかなりの不安に襲われずにはいられなかった。気の弱い久野が、杉村が帰って行くのを引き止めて同行どうこうする。そうするのには、久野に何か突き詰めた決心があるに違いないと思った。彼等の長い間続いた友情の最後の破滅キャタストロフィは、二人だけの間で今刻々演ぜられつつあるのだと思った。*
 雄吉は、今の場合久野が上方へ行くことを、いろいろな点から考えて、彼の為に不利益だと思ったし、また縦令行ってみたところで、三月と辛抱の出来ない久野であることは、よく判っていたが、彼の依頼いらいには忠実ちゅうじつに応じてやろうと思った。雄吉は、その晩すぐと京都の私立大学に、教鞭きょうべんを執っている知り合いの先輩に、手紙をかいた。この人は高等師範を卒業後、京都の文科を出ているだけに、中学の校長などにも知り合いの広い人のように思われた。
 その翌くる日、雄吉は新聞社へ出社すると、部長の江藤さんに久野のことを話して見た。久野の失恋は、世間的にもう薄々は知れていた。新聞や雑誌のゴシップの種に度々なっていた。江藤さんは、文芸の解る人だけに、久野にも同情を持っていた。大阪のN社へ紹介してくれることを快諾かいだくした。
 両方とも結果は、割合によかった。京都の先輩からは、中学教師きょうしの口を、二つばかり知らして来てくれた。が、雄吉が久野に逢って、その話をすると、久野は先夜の依頼をケロリと忘れたように、 「中学の先生よりも新聞の方がいい」と、ロクロク話も聴かなかった。
 江藤さんが口を利いてくれた新聞社の方は、もっと手早く進むように見えた。N社の編集長から、折よく上京するから、兎も角も逢ってみようという返事があった。
 久野は京橋の旅館で、この編集長と逢った。が、久野の風采ふうさいは相手の好感を獲なかった。風采の揚らない話下手の久野が、まれなる快筆かいひつの所有者であることを、相手は観取かんしゅし得なかった。久野の大阪行きは、頓挫とんざしてしまった。恋の苦悩からの逃避として、唯一の方法であった都落ちがおジャンになってからの久野の焦燥や煩悶はんもんは、一段と雄吉達の眼にいちじるしかった。彼は前よりも一層烈しく、友達の同情をあさ廻った。雄吉や並河や矢口などは、幾度同じ言葉を繰り返したか判らなかった。それと同時に、久野の失恋前後のいろいろな失態しったいを数え立てて非難した。久野はどんな非難でも、唯々いいとして聴いていた。雄吉や並河などは、こうして久野を非難しやっつけ﹅﹅﹅﹅ことに、妙な快感かいかんを持つようにさえなった。
 久野は、雄吉や並河などの親友が、久野の哀 訴コンプレイントに、だんだん飽きて来たことを見出すと、あまり親しくもない友人の所へまで、押しかけて行くようになっていた。一高時代に同窓であったという関係以外いがいには、あまり交渉はない友達にまで、久野は敗れた恋のすべてを、サラけ出して、同情を求めていた。雄吉は、すべての人に泣き顔を見せて、相手の同情を強要きょうようしようとするような久野の態度を、心のうちで卑しまずにはいられなかった。

四一

 大阪か京都かへ逃れようという計画が、ちょっと鼻柱はなばしらくじかれると、久野はあまり執着しゅうちゃくもなくその計画を断念して、今度は故郷へ帰ると言い出した。
 人間が、いろいろな艱苦かんく、さまざまな悲哀に、身上の処置に窮するとき、きっと思い出す所のものは故郷だ。*そこには、何等の奇もない、何等の新しい刺激もない、しかし静寂な休息きゅうそくだけは、永久に用意されているように思う。久野も、長い動乱の後に、とうとうその休息を欲し始めたのだと雄吉は思った。
 久野の母は、故郷にただひとり棲んでいた。愛の破産はさん者である久野の心を、本当につくろものは、やっぱり愛でなければならなかった。久野は、雪に埋もれている北国の故郷に、長年自分から見捨てていた母の愛に、すさんだ心を浴せしむべく、故郷へ帰ろうとしているのである。母の愛――それは、何等の華やかさもない、烈しさもない、質素しっそ野暮やぼな平凡なものである。が、それは永久に我々を裏切らない温かさと慈味いつくしみとを持っている。我々が、一生を通じて本当に確実に持っている愛は、ただこれだけであるかも知れない。その上、母の愛は、現在の久野に取り残されている唯一の愛だと、雄吉は思った。
 年が押しつまった十二月の二十七日の夜に、久野は故郷へ帰ることになった。少くとも三月、長ければ半年位は、故郷で暮すと言っていた。
 その日、雄吉は停車場ていしゃじょうまで、久野の見送るつもりであった。が、朝起きて見ると、軽い頭痛ずつうとを覚えたので、彼は新聞社の方も休んで、家でブラブラしていた。すると午後五時であった。表の戸をガタガタと開けて、旅装りょそうをした久野が顔をのぞき込ました。
「やあ」と、雄吉が出て見ると、久野の後に木山という男と、中野という男とが立っていた。
 木山も中野も、雄吉の一高時代の同窓であった。
「やあ。やあ」と雄吉は彼等と挨拶した。が、雄吉は久野が、ただ級友きゅうゆうであったというほかには、何の親しみもない男を、引き連れて突然訪ねて来たことをちょっと不愉快ふゆかいに思った。殊に、表の戸をあけると、すぐ左は汚い台所だいどころで雄吉の妻は、そこで夕食の支度したくをしている、丁度雄吉の貧しい生活が、あまり親しくもない友人の間に、さらし物にされている形であった。
「実はこれから国へ帰ろうと思うのだが、汽車きしゃは午後の九時だから、これから銀座あたりへ行って、カフエーで一杯飲んでから行こうと思うのだが、君も一緒に来てくれないか」と、久野は雄吉の不機嫌ふきげんな顔を見ると、遠慮しながら言った。
 故郷へ帰って、失恋の恋をいだいて、じっと三月でも半年でも、辛抱している為には強くなければならない。それだのに、久野は、その出発しゅっぱつに際して、平生は余り親しくもなかった木山や中野までも、狩り集めて、自分の都落ちの淋びしさを紛らそうとしている。しかも、銀座のカフエーで、一杯やってから行こうなどと、どうしてすべての事を、強く独りで堂々とやれないのだろうと、雄吉は久野の弱さを、今更のように悲しんだ。それと同時に、木山や中野などと同列どうれつに、彼の淋びしさを紛らす道具どうぐにされて堪まるものかと思った。
「僕は失敬しよう。実は今日は風邪かぜを引いたらしいのだから」と、雄吉はキッパリと断った。

四二

故郷に帰った久野からは、すぐ手紙が来た。

『雪に埋まってしまっている、故郷の家の炉辺ろへんに身を置いた時、自分はやっと長い間の心の激動から、救われたように思った。満面まんめんに溢れた欣びを以て、自分を迎えてくれた老いた母は、子の心のうちに、どんな悲しみが宿っているかは知らない。自分もまた、母の前に、このにらを噛むが如き苦しみをうったうべくもない。が、母の自分に対する愛は、それが盲目的もうもくてきであればあれほど尊かった。子と母との間には、何等の理解も要しなかった。母からは、何も訴えないでも、自分が求めている慰藉は、十分に受け取ることが出来るように思っている。
 今自分は、過去のすべてのことを諦めようと、努めている。すべての苦い経験を、あきらめの薄膜はくまくで包んでしまおうと、思っている。それは余りに弱者らしい事かも知れない。が、今の自分にはそれよりほかは仕方はない。
自分は、今かなり冷静れいせいな心持ちで、過ぎ去った一年を回想かいそうすることが出来る。自分はいろいろな点でつたなことをやった、軽卒けいそつであった、妄動もうどうもした。が、かえりみて道徳的にだけは少しもやましいところはない。今度の事件から誰が一番良心りょうしん苛責かせきを受くるか、これは神のみぞ知っているだろう。自分が犯したあんな些細ささい過失かしつの為に、口約こうやくを破る位なら、なぜ最初から、自分の申込みを断然だんぜんと断ってくれなかったのだろう。もしあの時に、断ってくれたならば、自分は人間として、これほど蹂みにじられずに済んだであろう。自分がこれほどの苦悩を味わっているのは果して自分だけの責任だろうか。又T子さんにしても、自分に対して、少しの愛も感じないにも拘わらず、あの口約に同意どういを与えたのだとすれば、あまりに人間の真剣な感情をもてあそ過ぎるものではなかろうか。また口約当時とうじには、多少の愛があったものが、段々薄れて行ったものだとすれば、その原因は自分だけが責任を負うべきものだろうか。T子さんの自分に対する愛を、妨害ぼうがいするか、若しくは他に移そうとした因子いんしが、ほかに存在しなかっただろうか。とにかく、自分の今度の事件について、一番良心の苛責を受くるものは、果して何人なんぴとだろうかと、自分は借問しゃもんしたいのだ。
が、こんな愚痴ぐちは言わない筈だった。すべてはあきらめられなければ筈であった。
故郷に帰って、烈しい動乱から逃れると、直ぐ自分を襲いかけたものは何とも整えがたき寂寥せきりょうだ。雪に閉ざされた故郷の村は自分を慰めるべく、余りに淋びしい。ただそこには泥沼のように沈滞ちんたいした静寂があるだけだ。自分はやっぱり、街の子だ。灯の子だ。孤独こどくを味わうべき人間では絶対になかった。』

 手紙の前半は、雄吉が幾度も聴かされた久野の愚痴と、大同小異だいどうしょういであった。後の方は雄吉が予期していた通りの文句であった。
 久野の手紙を読んだ翌日、雄吉は下谷清水町に居る矢口を訪ねた。雄吉が座に着くと、矢口は直ぐ、
「おい、久野が今まで来て居たのだぜ」と言った。*
「えい! 久野が。どうしてだい。国に居る筈なのだが」と、雄吉は半信半疑はんしんはんぎに訊いた。
「国に二日居て、どうにも居堪まらなくなって、飛び出して来たのだって」と、矢口は他人の駭きを、勧誘かんゆうするやうに、自分から、目をこそげながら言った。
「ほう!」と言ったまま雄吉も二の句が告げなかった
「せめて、半月も居るといいのだがな」と、矢口は笑って「あまり早く出て来たので、皆に面目めんもくないから、当分とうぶん誰にも言ってくれなと言っていたよ」と、付け足した。
 雄吉は、一寸意外にも腹立しくも思ったが、考え直して見れば、いかにも久野らしかった。久野の心持が、マザマザと解って、その妄動を咎める気にはなれなかった。

四三

 その頃、雄吉達の仲間で、二十日会という会があった。同人雑誌×××をやっていた並河や久野や杉村や雄吉などが発起ほっきで、毎月まいつき二十日に集まる文芸的な会合であった。
 久野と杉村との間が、変にひび﹅﹅が入ってからは、こうした会合に於いて、二人が顔を合せる場合のことが、雄吉にはちょっと心配になっていた。
 それは正月の二十日の夜だった。上野の山下の貸席かしせきで、毎月の例会れいかいが開かれた。雄吉は、杉村か久野のどちらかが、欠席けっせきしてくれればいいと思っていた。二人が、二人の間で気を悪くし合うのは、二人の勝手かってだと思ったが、二人が一座する為に、会全体の空気が白けたり、傷つけられたりすることを怖れたのであった。
 が、久野は早くからやって来た。そしてかなり元気に談笑だんしょうしていた。少し遅れて杉村もやって来た。雄吉達は、妙に緊張して、二人がお互いにどんな態度を、執り合うかを注視ちゅうしした。が、杉村は、久野の方を振りかえると、
「よう」と、事もなげに挨拶をして席に着くと、いつものようにニヤリと微笑を含んでいた。久野は杉村が入って来てからは、妙にを失って、喋り過ぎるかと思うと、急に黙り込んでしまったりした。
 二人の勝敗しょうはいは、彼等の服装ふくそうの上にさえあらわれていた。久野は、いつものように着古した銘仙を着ている。座敷ざしきへ入った時に、外套がいとうを脱がなかったところを見ると、「欲しい欲しい」と、口癖に言っている外套を、まだ持ち得ずにいるのだろう。それに反して、杉村はつい最近に松本家から新調しんちょうしてもらったらしい大島おおしまりゅうと﹅﹅﹅した揃を着ている、仙台平せんだいひららしいはかまを着けている。黒い立派な外套を、座敷の隅へ脱ぎ捨ててある。恋愛に於ける優者敗者の位置が、こうした服装にまで現れていることは、決して快い見物みものではなかった。雄吉は、杉村の急によくなった身装みなりに、反感を感ぜずにはいられなかった。
 その晩は、妙に話がはずまなかった。皆が、久野と杉村とが、一座しているということに、拘泥こうでいしていた。また拘泥せずにはいられなかった。
 十時頃に散会さんかいすると、雄吉は杉村と一緒に連れ立って、帰途きとに就いた。杉村と雄吉とは、江戸川行きの電車に乗る筈であった。が、広小路まで来ると、二人はどちらからともなく、本郷の三丁目まで一緒に歩こうと言い出した。十時を廻ったばかりであったが冬の街は淋しかった。戸を閉めている店もあった。久野の事件が起こってからは、杉村は並河や雄吉とも、余り逢ってはいなかった。従って久し振りに逢ってみると、二十日会の席上などでは、話せない私的プライヴエトな話が、随分積もっていた。本郷の三丁目まで来た時、二人はもっと話しながら歩きたかった。
「どうだい! 春日町まで歩こうか」
「いいだろう、僕はかまわない」
「そうか、じゃ歩こう」と、言いながらちょっと立ち止まった杉村は、またグングン歩き出した。
「この間の晩ね、君と久野とが僕の家で一緒になった事があるだろう。あの時、久野は君に話があると言って、一緒に出たが一体どんな話があったのだい」と、雄吉はいつか訊こう思っていたことを訊いた。

四四

「あああの晩の事かい」と、杉村はちょっと話したくないようであったが、
「実はあの晩、久野と一緒に君の家を出ると、久野がゆっくり話したい事があるというのだ」
「うむそれで」と、雄吉は杉村を促した。
「それで、一緒に連れだって、神楽坂の鳥屋に行ったのだが、そこで久野が何を話すかと思うと、すこぶ意外な事を言い出すのだ」
「意外な事って一体何だ!」
「いや久野と妙子さんとの間が、ああなってしまった代わりとして、久野が僕を妙子さんの女婿として推薦すいせんするというのだ。どうだ馬鹿々々ばかばかしくて少しあきれるだろう」と言いながら杉村は、嘲笑ちょうしょう的な微笑を雄吉に示した。
「どうしてそんな事を言い出すのだろう」と、雄吉は口では、ちょっとつまびらかしげに言ったものの、やっぱり久野らしい妄動だと心のうちでは思った。自分の恋が破れてしまった事を諦め、杉村と妙子さんとの関係を見抜いて、体よく自分の恋を譲ることに依って殉教者的なロマンチックな心持ちを味わうとする――同時に杉村の友情と、松本家の好意とを保有ほゆうしようとする弱い心持ちが、雄吉にはマザマザ解った。余り弱すぎる、そして少し卑しい。雄吉は杉村と一緒に出た久野は、杉村を面責めんせきでもするのかと思っていたのに。
「それで、君は何と返事したのだ」
「返事の為様しようもないじゃないか、まあ大きなお世話だと言っておいたよ」と、杉村は昂然として言った。杉村が少しでも弱いロマンチックな男なら、久野の犠牲的な申し出に感激して、両人手を取り合せて、泣き合う所なのだがと、雄吉は思った。
「それで、一体君と妙子さんとの関係はどうなのだ。僕は前から訊こう訊こうと思っていたのだが。久野は君と妙子さんとが、お互いに恋し合っていると信じてしまっているようだが」と、雄吉は思いきって訊いてみた。当人に直接訊かないで、久野の言葉だけを聴いて、杉村の事をいろいろに憶測することは、友人として正しい事ではないと思ったから。
「いやその事なら君にも話そうと思っていたのだが」と、杉村は前よりも沈痛ちんつうな様子になって「去年の十一月頃の事なのだ、毎日のように妙子さんが、僕の所へ来ては泣くのだ。泣くと言っても、おいおい泣く訳じゃないが、何か話していると「つまらないつまらない」と、しくしくと泣き始めるのだ、無論、ほかに人がいるとそんな事はないのだが、二人限りになると、しくしく泣き始めるのだ。余り毎日のように、しつこく泣くものだから、一体何がそんなに悲しいのですと、訊いたのだ。すると中々返事をしなかったが、とうとうおしまいに、「自分が思っている人があるのだが、向こうで思ってくれない」というのだ。少し大時代おおじだいで、可笑しいだろうが、事実だから仕方がない。」
「それで君は何と答えたのだい」と、雄吉はかなり緊張しながら返事を待った。
「僕はこう言ってやった。『思っている人があるのなら、直接その人に言えばいいじゃありませんか。僕の所へ来て、そんな事を言ったとて仕様がない』と言ったのだ」と、杉村は冷静に言っているようであったが、その声の何処かに、恋の勝利者としての誇りが、鳴り響いているのを感じた。

四五

「そう言ってやると妙子さんは前よりも、烈しく泣き出したのだ。で、僕も持て余したから、一体その思っている人というのは誰ですと訊いたのだ。僕の知っている人ですか、と訊いたのだ。それでも何とも返事をしないから、それじゃもし間違っているかも知れませんが僕の事ですかと訊いてみたのだ、すると『そうだ』というのだ、まるで何かのアテ﹅﹅をやっているようだったが」
「やっぱり妙子さんは、君を愛していたのだね。久野は、そういう疑いを最初から持っていたのだが」
「僕を初めて知ったのは、やっぱり先生のお通夜の晩なのだが、僕が一人ぼっちで、玄関で受付をしているのが、可愛想だったから、おすしを持って来てくれたというのだが、僕はちっとも覚えていないのだ。すしを喰ったことだけは、覚えているが、それを妙子さんが持って来たということは、スッカリ忘れているのだ」
「が、しかし最初から君に恋しているのなら、どうして久野にああした口約を与える事に同意したのだろう。」
「それだ。それは、僕も妙子さんによく訊いてみたのだ。ところが、妙子さんがいうのには、僕に接近する為に、久野にも親切にしたのだというのだ。僕があっての久野だというのだ。」*
 杉村は、真実しんじつを語っていたのに違いなかった。しかし、そこに無意識に動いている、杉村の自惚うぬぼ惚気のろけと言ったようなものを、感ぜずにいられなかった。
「しかし、君のために久野に親切にしたと言っても、まさか結婚の約束――ホンの条件附き約束かも知れないが、兎も角そんなものを与えなくってもよいじゃないか」
「僕と結婚することは、とても駄目だと思ったので、せめて僕の友達の久野とでも結婚しようと思ったのだと、妙子さんはいうけれども、僕はそんな明確めいかくな意識で行動したというよりも、やっぱり久野の熱情ねつじょうに動かされたりなんかして、心にもなく承諾したと思うのだ。久野にだって好意を持っていたことだけは、僕も認めている。」
 雄吉は、杉村の話を聴いていると、すべての事が判ったような気がした。妙子さんは久野杉村の両方に好意を持っていた。が、杉村に対してはその好意が本当の愛を含んでいたのだ。久野から、結婚を申し込まれたので、動き安い少女の心は、つい惑乱わくらんして、軽い承諾を与えてしまった。その中に、久野に依って恋せられたことに依って、人を恋するということを教えられている。そして、当然に自然に杉村を恋する。杉村の方から言っても、最初は妙子さんに、普通の興味しか感じて居なかった。が、友人の久野が妙子さんを恋したことに依って、妙子さんに対する興味をそそられる。何の事はない、久野は杉村と妙子さんとが、接近する道の地馴じならをしたようなものだと、思わずにはいられなかった。
 「妙子さんはどうも杉村を愛しているようだ」という久野の最初からの直覚ちょっかく的な感じは、正しかったのだ。久野が、もう少しその正しい直覚的な感じを、尊重そんちょうしたならば久野の悲劇は最初から起こらなかったかもしれなかったと、雄吉は思った。

四六

「が、妙子さんは久野との口約に同意したものの、すぐ後悔し始めたのだ。どんなに後悔していたか、あの口約のために妙子さんがどんなに煩悶していたかは僕がよく知っている。しかしそんなことを精しく言ったところで、仕方のないことだから」と、杉村は暫く黙っていた後に、思い出したように言った。杉村と雄吉とは、もうとっくに春日町の停留場を通り越して、富坂を上りかけていたのだが、二人とも電車に乗る事は忘れていた。
「それで君は、妙子さんの恋を受け容れたのかい」と、雄吉は思い切って訊いて見た。
「いや、その為に僕も煩悶しているのだ、妙子さんが僕に恋を打ちあけた時、僕は奥さんにその事を打ち開けたんだ。あの家に厄介になって居りながら、そういう事を、黙って聴いている訳には行かないから。すると、奥さんは『妙子が貴君を思っていることは前から知っていた』と、言ってくれたのだ」
「じゃ君が承諾さえすれば万事ばんじ丸く収まる訳だな」
「いや、しかしそうばかりとは行かないのだ。無論僕は久野に遠慮をしている訳じゃないんだよ。妙子さんの本当の愛が最初から、僕にそそがれていた以上、久野との間にどんな形式的な約束があったにしろ、そんな事は問題じゃないんだ」*
「それじゃ、君の方で妙子さんに愛がないというのかい」
「いや、そんなことはない。僕が一番いやな事は、門下生の人達を始め、周囲の人達とのいろいろな交渉だ。養子ようしではないにしろ、あの家へ当分同棲どうせいしなければならないということだ。それに藻石の女婿などと言われるのも、かなりいやな事じゃないかね。妙子さんが、ああいう文豪の娘でなければ、僕はもっと早く承諾が出来たと思うのだ。その上、僕は長男ちょうなんとして国の方の家を継がなければならないのだ。両親と喧嘩をしているので、中々家を出ることなどを承諾してくれそうもないのだ」
「それでまだ何とも返事をしてないのかい」
「妙子さんは、その為に煩悶しているのだ。今年になってからは床に就ききりなのだ。軽いヒステリィのような気味で、一日一日僕の返事を待っているのだ」
「まず恋病こいやまと言ったようなものだね。少しアテられるな」と、揶揄い半分に言ったが、しかし思い詰めているらしい妙子さんの姿を、思い浮べずにはいられなかった。
「まさか恋病いでもあるまいが、何かあるとすぐしくしく泣き出すので、仕末しまつに負えないのだ」
「しかし、それほどまで思っているのに、君がじらしておくのはいけないね。純真な少女が、それほどに思い慕っている。それを、情けなくするなんて人道じんどう問題だね。そりゃ早く返事をしてやるのだね、少し位な障害は妙子さんの愛のために、踏みにじって可なりだね」と、言いながら雄吉は、かなり昂奮してしまった。久野と会っていると、彼の失恋に同情して、ついつい昂奮してしまって、松本家や時には杉村までを、罵った事のある雄吉だが、杉村の事情を聴いて見ると、また一々尤もで、心から妙子さんの愛に報いることを、勧めずにはいられなかった。
「そりや一日も早く承諾して、妙子さんを喜ばしてやりたまえ」雄吉は、杉村が黙っているので、またこう言い足した。
「いや、有難う。しかし、こりゃ僕自身でゆっくり考えるべき問題だからね」と、杉村は冷静に答えた。

四七

 とうとう電車に乗らずじまいで、二人は江戸川まで歩き切った。小桜橋という小さい橋のたもとで、雄吉と杉村は別れた。
 杉村も悪くはない、雄吉が杉村であったならば、杉村の通り行動するほかはない。否、杉村よりも、もっと早く妙子さんの恋を容れているのに違いない。が、それかと言って、久野にも悪い所はない、人を恋うることに罪はない、彼のいろいろな失策も、皆軽卒や気の弱い所から、きざしている。道徳的には少しも悪い所はない。それならば、誰が悪いのだろう。恐らく、誰も悪くはないのかも知れない。ただ、杉村と久野と妙子さんとが、ああした境遇に置かれたのが悪いのだろう。雄吉はこんなことを思いながら、家に帰った。
 それから、二月ばかりして、杉村は妙子さんに結婚の承諾を与えたと、雄吉に知らして来た。門下生の人達の一部は再び反対しようとした。が、他の多くは「久野君の場合にも反対している上に、また今度も反対すると、我々が永久に妙子さんの結婚を反対しているようでいけない」と、言って誰も口を緘んでしまった。こうした意味でも、久野は杉村のために地馴らしをしていたのであった。
 二人の結婚は、かなりさかに帝国ホテルで挙げられた。杉村側の友人の唯一人として、雄吉は席に連なった。杉村と妙子さんとが、堅くなって身動きもしないで腰をかけている前で、落語家の円右が「三方目出鯛」という話をしていた。可笑しい所が来ても、誰もが笑わなかった。結婚式というものは、形式的なギゴチないものだとつくづく思った。「三方目出鯛」と言っても、杉村と松本家との両方が目出度いのは、判っている。が、もう一方の目出度いのは、何処だろうと思ったりした。すると、雄吉は急に今宵一晩を輾転として明かすべき久野の事を思い出して、暗澹あんたんたる心持ちに襲われずにはいられなかった。
 *  *  *  *  *
杉村の結婚式が行われた丁度翌日に、久野や杉村の友人の山口という工学士が、同じ帝国ホテルで結婚式を挙げた。この工学士は無類むるい好人物こうじんぶつで、久野と同じ下宿に居て杉村とも親しい知り合いであった。
 その晩、雄吉が新聞社にいると、九時頃に久野が訪ねて来た。出て見ると、久野は結婚式でもらったらしい花籠はなかごを持っている。
「やあ。今山口君の結婚式に行っていたのだ。どうだい。暇ならバウリスタでコーヒーでも飲まないか」
「ああいいとも」
 二人は連れ立って、すぐ近所のバウリスタへ入った。雄吉は、久野が花籠を卓の上に置くのを見て、
「何だ花籠をもらって来たのかい」
「ああいいだろう、これは造花ぞうかだからいつまでもあっていいよ」と、言いながら、久野は真赤まっか花片はなびらをいじっていた。
 自分の恋人と敵手ライヴァル >とが、昨日結婚式を挙げている。しかも同じ帝国ホテルで挙げている。もし、雄吉がもし久野であったならば、忿恨ふんこんのためにも帝国ホテルなどへは、今の場合足踏みもしないだろう。まして、結婚式などは誰の結婚式でも呪ってやりたい。が、久野は違っている。自分の夢が、あんなに踏み躙られても、やっぱりその破片はへんをでも慕っているのだろうか。それとも、やるせない淋びしさを紛らす為に、気晴しに華やかな所へ出て見たのだろうか。じっと、差し俯きながら、コーヒをすすっている友の顔を見ていると、弱い淋びしい傷つき易い人間らしい心の持主の為に、心からの涙を流さずにはいられなかった。*










一一
一二
一三
一四
一五
一六
一七
一八
一九
二〇
二一
二二
二三
二四
二五
二六
二七
二八
二九
三〇
三一
三二
三三
三四
三五
三六
三七
三八
三九
四〇
四一
四二
四三
四四
四五
四六
四七