35.御油宿 (2007.11中旬)
最寄り駅は『新版・完全 「東海道五十三次」 ガイド』によれば
名鉄名古屋本線・国府駅。国府津と一緒で"こう"と呼ぶのか。
wikiで国府を見てみると、"こくふ"と呼ぶ地名もかなりあるみたいだ。
速須佐之男神社
本当にスサノオ絡みの神社は多いなぁ(・∀・)
白川に架かる五六橋を渡る。
む( ・´ω・`)!! 何か居る!!
逃げられた(ノ∀`)白鳥ではないけれど、この近くの地名が白鳥だったので
なんだか白鳥を撮り逃した気分(w
何かしら とり逃したる あの鳥は 口調が なぜか女言葉に
東海道中膝栗毛を読んでるとつまらなくてもいいから言葉遊びしたくなる(・∀・)フシギ
五六橋の南の方にも裏五六橋という橋もあり、面白そうなのでぐぐってみたが、
地名の由来はヒットしなかった。豊川市の地誌とかを当たらないと駄目なのだろう。
岐阜の五六川橋の名は五六川に架かっているからであり、その五六川の名の由来は
河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている。
ということらしい。
三重県松阪市の五六橋は
この大日如来の霊験に感謝し、斎藤五六兄弟が架けたという五六橋が門前に(
忘れ井の里を旅する)
平維盛の子六代は日川に隠れ住んでいました。六代が病にかかり家来の斎藤五、六兄弟は、清流寺(現在の西方寺)に祈願をしました。その後六代の病は完治し、五六橋と名付けられ、西方寺に残る欄干は、五六橋の欄干であると伝えられています。
(西方寺の五六橋)
ということらしい。六代……逗子に墓がある六代御前絡みかΣ(゚∀゚;)
愛知県豊田市の東海自然歩道にも五六橋はあるらしいが由来は不明。
(寧比曽岳(1121m)~富士見峠~五六橋~段戸原生林~段戸裏谷)
兵庫県芦屋にあるゴロゴロ橋は
「ゴロゴロ(五六五六)橋」であろう。
なお、付近には「ゴロゴロ岳」といった山があり、標高が565.6mであるから語呂合わせでこのような名称になったらしい。(1240 ゴロゴロ橋(ごろごろばし)※なんか色々あったみたいで、ページ閲覧が出来なくなっていた(´・ω・`)
とある。これは非常に新しい地名のようだ。
案外、
ご‐ろく【五六】
1 双六(すごろく)やさいころばくちなどで、2個のさいの目が五と六と出ること。
2 5寸角、6寸角のような、太くしっかりした材木。
3 縦が六幅(むの)、横が五幅(いつの)の、三畳間につる蚊帳。
材料由来や流されないように願掛けとしての2.かも。
或いは3.みたいな感じで長さと幅由来もあり得るか。
まあ寄り道はこれくらいにして(・∀・)
この辺は特に何もなし。工業地帯なのかな?
GPSの軌跡を見ると31号線はそのまま渡れずに一度、
1号線の方に行ってから渡ったようだ。
あきば書店(´・ω・`)?
白鳥5丁目西のところで1号線に合流。名古屋まで62…kmだと…( ;・´ω・`)ゴクリッ
白鳥5丁目を通過、国府町藪下で374号に。
半僧坊大権現、秋葉山常夜燈
半僧坊って鎌倉にもあったな。えらい高いところにあって息があがった(´・ω・`)
そのまま天園ハイキングコースに行った記憶がある。
道やら観音様?やら
良く見ると右のお坊さんらしき人は独鈷杵(三鈷杵?)みたいなのを持ってるな
八平次……誰だろうか(´・ω・`)?
豊川市国府町では「はっぺい様」と呼ばれていた方の記念館です。(八平次記念館八の蔵)
ふーむ、なんかそういう人がいたんだな。
姫街道(ひめかいどう)とは、江戸時代以前の徒歩時代における、主要街道の別ルートの一部に対する呼び名。(姫街道)
姫街道ってここだけの名前じゃないんだ。へー(・∀・)
368号を横断し、音羽川に架かる御油橋を渡る。
ちょっといい感じの場所だった。
そういえば途中の川原や松並木のとこで女の人が歩くシーンを撮影していたが、
あれはなんだったんだろうか(´・ω・`)?
AVではなさそうだが、カラオケの意味不明映像だろうか?
撮影スタッフの中に業界人ぽいセーターの羽織り方をしている人が居てわらた(w
あれは目の前で見ると凄くダサイ
やっぱり何ごとも※ただしイケメンにかぎる だな(´・ω・`)
道は狭かったけれど、それほど車は走っていなかった。
まあ時間帯の問題かもしれないけれど。
ベルツ花夫人ゆかりの地
ベルツ花夫人は、東京の神田で一八六四年に荒井熊吉とそでとの間に生まれ、江戸・明治・昭和の時代を生きた、御油とはゆかりの深い女性です。
明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。
一九〇五年に任期を終えた博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため一九二二年に帰国し、一九三六年七四歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で戸田屋という旅篭を営んでいたのがこの場所です。
旅先でちょっと見した時は唐人お吉のような悲しいお話かと思ったけれど、
普通に幸せに一生を送ったみたいだ。
問屋場跡やら本陣跡
いがやの中に弥次喜多人形らしきものが見える
東海道中膝栗毛での御油赤坂のくだりを書いた看板、
赤坂宿側から撮った御油の松並木
この松並木を抜けると赤坂宿らしい。