「人」というものについて考えてみる-3

久しぶりに「人」というものについて考えてみた。

と、書き始めてから半年以上も推敲を繰り返す_| ̄|○
取り敢えずの形でいいから書き上げたことにする。


以前のエントリで考えた「<脳内>世界」「精神的恒常性」の他に「人」を構成する重要な要素があると考える。「自己愛」と呼ばれる類の物とそれを
必要とする仕組みである。

「自己愛」はナルシズムなどの自己陶酔などとも翻訳されるような異常な状態や
自分の関心全てが自分にのみ向けられている人のみが持つような異常なものの
ような捉え方をされている場合もたまに見かけるが、これは自己愛というよりも、
「<脳内>世界」を防衛するために形成された歪んだ思考や行動のパターンに
過ぎないと考える。

「自己愛」というものの定義は色々とあり、一概にこうだと決めつけるわけには
いかないのだけれども、自分なりの定義をしたい。


あらゆる生物は生きようとし、その為に必要な判定を行う。

人間でも動物でも、あらゆる生物は基本的には生きようとする。
これは本能的に備わっている物であり、基本的には抗うことは出来ない。
最も単純な意味での生きるということは生命活動を維持することである。
個体が生命活動を維持する為には、呼吸、栄養摂取、排泄、睡眠等を行う必要がある。

これらの行為は摂取する食料の選択、その食料を取得する場所の選択、
安全な住処の選択や危険を回避しようとする選択などによって成立する。
誤った選択をしつづける個体は高い確率で淘汰される。

この時に行われる選択はその個体の基準によって判定される。

この基準(閾値)自体はその種が持つ遺伝的知識と個体の経験的知識に
依存するので多種多様ではあるだろうけれども、判定機能そのものは
おそらく人間よりもはるかに前の世代から備わっていたもので種を問わず、
不変の仕組みであったろうと考える。もしかすると外界の環境・刺激に対する
内部演算とその結果としての反応という最も原初的な仕組みが複合化したモノ
なのかもしれない。


判定は行動やモノを取捨選択する。但し人間は多角的総合的判定を行う。

判定によって行動やモノは取捨選択される。
有用であるが故に行われる、有用であるが故に残される、
無用であるが故に行われない、無用であるが故に捨てられる。

この判定は閾値を越した時に機械的に行われる反応であり、覆すことの出来ないものである。

但し人間の場合は一つの基準で無用になったからといって、それ即ち無用とはならない。
人間は複数の基準や特定の条件を考慮して多角的・総合的判定が行えるからである。


多角的総合的判定は脳内世界にある概念を用いて行われる。

現実世界からの刺激に対する演算に複数の基準や特定の条件の適用という
高度で複雑な処理、つまりは多角的総合的判定を行えるのはおそらく人間のみだろう。
比較的高い知能を持つ動物もある程度は可能ではあるが、脳の容量的な問題と
広い意味での言葉を有していないために、その程度は幼児レベルであり、ここでいう
多角的総合的判定と呼ぶには値しないと考える。

この処理は人間が概念を扱えるが故に可能である。ここでいう概念とは、
脳内世界に定義(解釈された)現実世界の断片や現実世界の断片から作られた
想像の産物である。
現実世界の解釈を行う際にも概念を用いた多角的総合的判定は行われる。
人間が現実世界を解釈する際にも、脳内で想像する際にも既存の概念を使用する。
生後間もない頃の世界の概念化においては判定がされず、事象が快不快でのみ
記録されているのではないかと考える。


人間は概念としてあらゆるモノを捉える。
人間は現実世界を解釈する為に自分自身を含めたあらゆるものを概念化する。


多角的総合的判定はあらゆる概念に対しても行われる。
取り分け意識が向いているものに。

多角的総合的判定はあらゆる概念に対して行われるが、取り分け意識が向いている対象に
対して行われる。外部や他者に意識が向いていない時、人は自分に対して意識を向ける。


多角的総合的判定で自らを無用と判定した場合に何が起こるか?

人間が自らを多角的総合的に無用と判定した場合、つまりは"自分が生きる"ということ、
"自分が生き続ける"ということに価値を見出せなくなった時、トータルでマイナスである考えた時、
それはどういう結果をもたらすか?
あくまでも予想に過ぎないが、おそらくそれは自殺という形をとるのではないかと考える。
必ずしもではないが、多くの人は惨めな気分(自分が低価値、無価値であることを認識している状態)や
将来的に低価値無価値状態が続くorなると判断した時に死の衝動に襲われるのではないかとも考える。

この死の衝動とは基準によって判定された無用のモノを"捨てる、破壊する、
世界からその存在を消去する"という機械的反応だと考える。

この無慈悲なる死の顎に捉えられた者に逃げる術はない。


自己愛とは自分に対して"価値"を供給するための機構である

他の動物ならば、自らを対象にその価値をはかり、その無用さ故に自らの命を断つことは
ほぼありえないが、人間は進化の過程においてその可能性を持ってしまった。

この自らをも滅してしまう状態を抑制する為に自己愛は発達したと考える。

自己愛とは、あらゆる人間が備えている、その人間の精神本体、
即ち脳内世界の核をなす自己やその周辺要素に対して"価値"を
供給する機構であると考える。具体的には抑圧や同一化などの
防衛機制で説明されるような反応により、現実世界を自己に対して
有利なように解釈するための機構である。

一言で表現しにくいが"価値(value)"とは判定において+側、「有」の結果をもたらすモノである。
「有」の結果とは即ち"有用である、存在意義がある"ということである。判定とは最小単位まで
つきつめていけば有り/無しという形であり、閾値を越すか越さないかというものである。
"価値"とはこの閾値を越えさせるモノという表現でも良いのかもしれない。


今後は「自己愛」と定義した"価値"供給システム、「<脳内>世界」、
「精神的恒常性」により毒親連鎖や人格障害者の発生の説明へと
大風呂敷を広げていきたい。

とりあえず次は"価値"="愛"とは何か、人間の生育にどう影響するか
について考えてみる。

ここでいう愛とは惚れた腫れたの恋愛的要素が強いものではなく、
"そのモノが存在することを認める、そのモノが存在することを望む"と
いったニュアンスの広意義な愛である。