19.府中宿(2007.11初旬)
最寄駅はJR静岡駅。ガイドブック上の端っこから歩くなら
県総合運動場駅になるのかな?
あずまはしを渡って道なりに。
草薙運動場で右折。
県総合運動場駅付近のすき屋に。葱玉丼とかいうのを食べたような。
その隣にあるJAに貼ってあったポスター。まるで俺のようだ(´・ω・`)
静岡鉄道沿いに行くと石碑
どうやらJRの線路で途切れているらしい。
地下道があったのでそこを通る
地下道を出て、折り返した後、
やまtJR線沿いを200mほど行ってから右折。後久橋を渡る。
川に鳥が居たので撮影をしようと試みたが、逃げられて変な感じの写真に(´・ω・`)
ごみ袋が飛んでるの撮ったみたいになった。
この時は何故か、草薙→日本武尊→白鳥という連想が働いて、
白い鳥を取ることに何故か執着していたような(w
古庄と書いてふるしょうと読むのか。こしょうじゃないのか。1号にちょっとだけ合流
この74号と1号が交差する長沼の信号のところでGPSログが奇妙な動きをしている。
何故か静岡鉄道の方に行って戻ってきている。横断歩道がなかったのかな?
長沼駅付近でバンダイがΣ(゚∀゚;)
バンダイホビーセンターとかいうらしい。見学も申し込めばできるみたいだ
だらだら道なり。一号と合流?
柚木駅のところで左の道へ。
ここも葵区なのかΣ(゚∀゚;)
葵区って滅茶苦茶広くないか
大井川鉄道の終点の井川とかその奥も葵区だったような…
JR線の下を通って黄金橋あたりで右折?
この辺は立体交差だったのでよく覚えてない。
曲金辺りで再びJR線の下を通って1号線を横断
下横田町 伝馬町通りを歩いていく
静岡の中心部辺りにようやく到着。お腹痛くて109へ。
その後、中途半端な時間だったのでビジホを探すか先に進むか考えるために
休憩を兼ねてスタバか何かに入る。
疲れきっていたのでなんかヘロヘロな状態で注文する。
大きな荷物を背負い汗だくだったので、店員からみたらかなり怪しい人だったろう。
結局、行けるとこまで行って最悪静岡に戻ろうという、
いつも通りの行き当たりばったり路線に落ち着く。
今にして思えば早めに宿を取って駿府公園でも見学するべきだったか。
確かこの日は土曜で人通りも多くてなんだか場違い極まりなかった記憶がある(w
江川町の信号から呉服町通りへ向かい、呉服町通りを伊勢丹方面へ。
伊勢丹のところで左折して362号を横断、二本目を左折。
そこから二本目を左折、その先は新町通りをひたすら直進する。
この辺で人通りも車も少なくなった。
ガイドブックをみると、一本向こうの通りに一里塚跡があったようだ。
208号(84号)を横断するとなにやら公園らしきところが。
弥勒緑地というらしい。
なんか機動隊のバスみたいなのがあったり、安倍川架橋の碑、トイレ、由井正雪の墓、
冠木門(かぶきもん)、安倍川の義夫の碑などがあった。
弥勒町
江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を〝安倍川餅〟という。これが「弥勒町」の名の由来となった』と記されています。(後略)
安倍川の義夫の碑
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文三年(一七三八)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当り前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(一九二九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
碑文
難に臨まずんば忠臣の志を知らず。
財に臨まずんば義士の心を知らず。
(たから)昭和六十年一月
静岡市
ゆすりたかりの酷かったらしい川越人夫の中にもまともな人が居たんだなぁ(・∀・)
そういや安倍川餅も食べなかったな(´・ω・`)
なんか複数軒あったような。抹茶をまぶしたやつはちょっと気になる。
安倍川もち(あべかわもち)は、和菓子の一種。静岡市の名物。本来は搗きたての餅にきな粉をまぶしたものに、白砂糖をかけた物である。 現在では小豆餡をまぶしたもの、最近では抹茶をまぶしたものも出てきている。(安倍川もち)