ある夏休み。長崎市街から少し離れた山村に住む老女・鉦(村瀬幸子)の許に4人の孫たちがやってきた。都会の生活に慣れた孫たちは田舎の生活に退屈を覚えながらも、長崎の街にある戦争の傷跡や鉦が話す昔話を聞いて、戦争に対する考えを深めていく。
多くの人が言うほど駄作でもないが、一部の人が言うほどの佳作でもない作品かな。
黒澤明自体はこれは反戦映画ではなく孫と祖母の物語であるというようなことを
言っているらしいが、平和教育を受けてきた世代から見ると、これは紛うことなき
反戦映画に見えたw 反戦映画が悪いというのではなく、ステレオタイプな子と孫の
子の性格設定とその改心の流れの部分が非常に出来が悪く、そこだけが平和学習用
教材のように浮いて見えるのが良くない。とってつけたような田舎エピソードの消化も
あんまり。鉦ばーちゃんのパートは凄く良いんだけども。
段々調律されていくオルガンは孫達の変化を表しているのだろうか。
クラークが鉦ばーちゃんに謝るのは台詞的にも文脈的にも原爆投下についてではなく、
鉦ばーちゃんの旦那さんが原爆で亡くなったことについてなんだけど、大きい枠組みで
見るとやっぱり、原爆=アメリカに対しての嫌悪をクラークさんの謝罪とそれを
「いいんですよ」と受け取ることによって解消し、ハワイの錫次郎に会いに行くのに
前向きになったような気がする。忠雄(井川比佐志)や良江(根岸季衣)が缶詰工場絡みで
ぐだぐだ言った時の叱責もまた、話的には単純に金持ちに対する浅ましい乞食的期待を
叱責したように見えるが、戦後日本のアメリカ依存に対しての批判のようにも思える。
原作からしてそういう作品なのかなと思ってぐぐってみたら、原作「鍋の中」の作者・
村田喜代子によるこの映画の感想らしきものがあった。中々面白い内容だった(・∀・)
一年ほど前にシナリオをみせてもらったとき、後半は「鍋の中」の影も形もなくなっているのを知った。それはいい。しかし原爆の部分にどうしてもこれを入れなければならなかったとおもわせる、こちらに打ってくるものが感じられず、ただ奇異な読後感だけ残ったものだった。
(中略)
とにかく、このように私の「鍋の中」は、なぜか原作には影も現われてはいない戦争を、奇妙にかかえこむのである。その点について、おもいだすのは飯沢匠氏の言葉だった。
(中略)
「原作をこんなふうに変えてしまいましたが、私などの年代の人間には、どうしても戦争というものが時代的に入ってきて、それを抜きにしては語れないのです」
原作は戦争とは関係ないようだから、やはり戦争に絡めたのは黒澤明なのか。
戦争世代の黒澤明には反戦映画のつもりはなくとも、他の世代の目には
反戦映画として映るということかな。
鉦ばーちゃんは本当は錫次郎に会いたかったのかねぇ。
何はともあれ血縁者の死で記憶障害を引き起こしちゃったんだな。
ラストシーンのおちょこは野ばらを表しているんだろうけれども、
童が見た本当の「野中のばら」は鉦ばーちゃんなんだろうなぁ。
倶会一処のシーンの後のばらの木への蟻の行列もまた、童が見た
「野中のばら」だけれども、これはまた異なる意味を表しているような。
鉦ばーちゃんが「野中のばら」たる所以はその生き様であるのに対し、
このシーンの蟻の行列は生きている人間達であり、「野中のばら」は
倶会一処における浄土であり、同時に人間の一生やその生死を表しているのかな。
クラークさんと鉦ばーちゃんの会話の後ということや「童は見たり」ということを
踏まえると起きてしまった戦争は致し方ないこととして、これからは同じ人類として
共に未来を歩いて行こうという意味があったとしてもおかしくはないけど、どうだろう?
まあどうでもいいや(・∀・;) アツイシ…