蜜柑畑の細い道をゼーハー言いながら上っていると何やら怪しい機械が( ・´ω・`)
モノカーと書いてある。蜜柑運搬機か(・∀・)!!
どうも永田というメーカーの物らしいけれど、ぐぐっても出てこない。
もう潰れてしまったのか他の企業と合併してしまったのだろうか。
モノラックとかいうのもあるらしい。
石碑やら何やらが色々とあった。
コンクリート防壁を作る前は道沿いにあったものなんだろうか。
段々坂がきつくなってくる(´・ω・`)
モノラック発見(・∀・)!!
モノラックでぐぐると幾つかの会社がヒットするけれど、何処が商標を持ってるのだろうか?
薩埵峠へ向かう途中というか進行方向逆にあるわき道を登ったところからの風景
薩埵峠へ向かう途中のスペース。ここは道が狭いのに車が通ってるから、
ここは行き違う為のスペースなのかな?
薩埵峠
由比薩埵峠間はそこそこ観光客が居た。無人販売の早生みかんは一袋100円だった。
考えてみると空腹状態で上っていたんだな。さった峠はえらく眺めがよく爽快だったけれど、
残念なことに雲が多く、富士山は見えなかった(´・ω・`)
駐車場(トイレ)、展望台、休憩所風景など。
よくみると富士市の煙突も確認できた。
しばらく休んでから出発。
柵やら何やら。山ノ神という石柱があった。牛房坂というのもあったが何の説明もない。
牛蒡が沢山とれたとか牛舎があったとも思えない。由来がわからない。
薩埵峠の歴史
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩た山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)
ここに道が開かれたのは一六五五(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道巾は四メートル以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1一八五四年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。興津地区まちづくり推進委員会
興津側に降りていくとお墓に出た。
興津側の入り口辺りにストックが一杯。無料貸し出ししてるのか。
休憩所(トイレ付)があり、人もあまり居なかったのでしばし休憩する。
足が (゚ー゚)(。_。) (゚ー゚)(。_。) だった(´・ω・`) ←※コンビ解散してしまったのでもう伝わらないネタ(ノ∀`)