年: 2009年

26.掛川宿

26.掛川宿(2007.11中旬)

最寄駅はJR掛川駅。

掛川あたりから、なんだか左上の歯が痛くなる(;><)

旅を中断して戻るかと思ったが、今戻るとそのまま戻ってきそうにないので、
ショック療法ではないけれど、逆に思い切り噛み締めたりして痛みに鈍感になろうとする。
今にして思うと余りにもアホな対処法だったが、この旅はそれでなんとかなった(w

葛川一里塚。
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秋葉常夜燈
なにやら塩の道なるものがあるのか。
七曲りという地名は何処にでもあるなぁ(w
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七曲りを過ぎて37号線に合流。
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掛川銀行?と相変わらずかっこいい清水銀行(・∀・)
なんなんだこの銀行、ちょっと好きだ(w
ちょっと行けば掛川城があったらしい
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掛川城蕗の門
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なんというかそこにはそこに住む人たちの生活があるのはわかるのだけれども、
観光客が写真を撮りそうなところには駐車しないようにする心がけみたいのを
行政側が指導していかないとと駄目だよね( ・∀・)(・∀・ )ネー

借景で風光明媚な風景が見えるようにとは言わないけれど、もうちょいなぁ。
観光名所のすぐ裏に駐車場があるのがいけないんだけれども(w


十九首てなんか怖いな((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
将門絡みなのか。

秀郷は、ここを流れる清流で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。 朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「たとえ朝廷にそむいた者といえども、名門の武将の屍にむち打つことはしのびない」と言い、 将門一門の十九の首を別々に埋葬して、ていねいに供養したということです。 天慶3年8月15日のことでした。 この首実験のあと、検視役の使者は、将門のつるぎ、黒白二双の犬の掛軸、 念仏仏の薬師如来他の宝物を、東光寺の草庵に収めて帰りましたが、 のちに神社に移し、この神社を十九首権現、十九首八幡と改めました。(十九首の首塚さま 掛川市十九首町

常夜燈。また成田山だ。この先が東光寺なのかな?
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逆さ川にかかる逆川橋を渡り一号線に合流して左折。
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倉真川に架かる大池橋を渡り左折して253号へ
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あれが駅なのかΣ(゚∀゚;)
尿意を催して西掛川駅近くの公園トイレ。
地図でみると近くに大きいスーパーとかあったのか
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さやの家?特養ホームか
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掛川の松並木のあたりで電池切れ。焦る(((( ;゚д゚))) 
新しい電池にしてもつかない(´・ω・`) とりあえず地図をみながら進む。
比較的わかりやすいところだったので、迷わず進む。工場やら畑やらがあった。
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どうもこの辺にあるはずの一里塚をスルーしてしまったらしい。
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東名高速の下を通り、垂木川に架かる善光寺橋を渡る。
この辺りから袋井宿側か。
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27.袋井宿(2007.11中旬)

最寄駅はJR袋井駅。

仲道寺って何処だと地図を見るも載ってない(´・ω・`)
と、ガイドブックを見てみると"東海道のちょうど真ん中に位置することから
「仲道寺」とも呼ばれている"って書いてあった…

原川松並木を過ぎる。
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いつの間にかPHSが復活。起動のための充電ができたようだった。


一号線に合流、同心橋を渡り、ぐるぐる回って下の道へ。
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地図を見ると不入斗(いりやまず)という地名がある。
横須賀にもあった。由来はなんだろうか。
第12回 不入斗村(いりやまずむら)によると諸説あるようだ。これはほじくるのはよそう(w

日が沈み始めた頃、袋井側の松並木を歩く。街灯がなく危ない。
そんなとこを無灯火で走る自転車も危険。しかしそんなとこをそんな時間帯に歩く
東海道徒歩旅人の無謀さが一番危険(´・ω・`)
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富士浅間宮への入り口の大鳥居。600m北にあるのか。
まあ鶴岡八幡宮の若宮大路の鳥居もかなり離れてるもんな
一の鳥居~三の鳥居ってどれくらい離れてるかマップルで測ったら1.3kmくらいあった(w
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久津部一里塚
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どまん中小学校Σ(゚∀゚;) ああ、本当の名前は違うのか
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空腹に耐えかね、一号沿いの天神屋で
えんしゅうラーメンとチャーハンのセット680円を食べる。

元の場所に復帰後、再びPHSが起動しなくなる(´・ω・`) 今度は充電しても駄目みたい。
仕方なく終了。袋井駅を目指したが。かなり距離があった。

油山寺への道標がちらほらと。あぶらやまでら?

油山寺(ゆさんじ)は、静岡県袋井市村松にある真言宗智山派の寺院。遠州三山の1つ。山号は医王山。詳しくは医王山薬王院油山寺と称する。本尊は薬師如来。紅葉の名所として知られる。
寺伝によれば大宝元年(701年)に行基が創建し、油が湧出した所から「油山寺」の名が付いたという。(油山寺

臭水じゃない油が出たんだろうか(´・ω・`)
油山寺ホームページの由来にも油について詳しく書かれていないような。

※追記 ページがリニューアルされて由来のページで言及されていた。

油山寺という名前は、昔この山から油が湧き出ていたため「あぶらやま」と呼ばれていたことに由来しています。
油山寺の由来

この辺は寒いしPHS壊れたかもしれない、歯がちょっと痛い、ホテル決めなきゃと情緒不安定な状態だった為、あんまり詳しく覚えていない(w
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町にある地図看板を頼り和橋を南下。
またトイレに行きたくなったので袋井駅駐輪場のトイレへ。

PHSの電源が入らず途方にくれるも、先日調べたホテルの位置に向かう。
タウンホテル松乃。風呂が三角形で狭い。
部屋の照明が暗い。空調が…というか全体的に設備が古い(´・ω・`)
でもなんか猫が居た(・∀・) セブンイレブンでお酒とか買う。2230くらいに寝る、
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約29km
282-29=253km

品目 金額 備考
スミヤキヤキトリパン(シオアジ) 126
レタスサンド 240
テマキオニギリネギトロワサビ 125
メイトー 玄米茶 1L 103
キリン一番搾り缶500ML 270
キリン 円熟 500ML 211
ジョッキ ピリ辛するめあし 398
ちぎりパン(バニラチョコ) 105
炒飯ラーメンセット 680
タウンホテル松乃 5775
累積使用金額 62,508円 残り: 253km

進化しすぎた脳 / 池谷裕二

大脳生理学を専門とする著者・池谷裕二いけがやゆうじ氏による、
脳について書かれた一冊です。

主な内容は慶應義塾ニューヨーク学院高等部で四日間行った脳科学講義の記録です。
実際に行われた講義の記録の為、対話式でとても読みやすく、
理解しやすい感じになっています。
普通の脳科学本の堅苦しさに挫折・敬遠した人にお薦めだと思います。

神経細胞上を伝わっていく「スパイク」の仕組み、
グルタミン酸を放出するシナプス・「GABAを放出するシナプスによる合議的「発火」
人間の体のさまざまな部位の機能が、大脳のどこに対応しているかを表す「脳地図」
大脳皮質の表面積の比で体を表した模型「ホムンクルス」
「あいまいな記憶」とその目的、「意識と無意識」、「脳の解釈」など、
非常に興味深い内容です。
 


この本を読んで、大した根拠もなく書いたエントリ(「人」というものについて考えてみる)もあながち間違いでは無いような気がしてきた(・∀・)

25.日坂宿

25.日坂宿(2007.11中旬)
ガイドブックによれば最寄駅はJR掛川駅からバスで30分「八幡宮前」とのこと。

周りは一面、お茶畑。そしてカマキリ。
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登り坂もさることながら風がとんでもなく強い。汗が冷えて寒い。
季節にもよるが日坂を越える時は上着が必要かも。
帽子やかつらなんか簡単にもってかれそうだ。


日坂宿までに沢山あった歌碑。祠、道。
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接待茶屋跡の石碑、防火看板、久延寺
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うさぎ、マッチポンプ防火かよ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル


久延寺の夜泣き石

むかしむかし、暗い夜道を大きなおなかをした若い女の人が小夜の中道の峠を越えようとしていました。
そのとき、暗がりから盗賊があらわれました。
「金を出せ!」
「どうぞ、命ばかりはお助けください。私のおなかには、赤ちゃんがいるのです。」
女の人は命ごいをしたのですが、盗賊は言うことも聞かず、ばっさりと切り殺し、持ち物を奪うと、どこかへ姿をくらませてしまいました。
女の人の息はもう止まっていましたが、その傷口から、赤ちゃんが生まれました。

しかし、赤ちゃんは元気がなく、自分の力では泣くことができませんでした。
このままでは誰にも気づかれることなく、赤ちゃんも死んでしまいます。
そのとき、不思議なことに、近くにあった石が大きな声で泣きはじめたのです。
聞きつけた村人がかけつけ、赤ちゃんを助けだしました。
死んだ女の人は手厚く葬られました。
それから、しばらくして夜になると時折、この石は声をあげて泣くようになりました。
こうして誰となくこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになったのです。(夜泣き石

(wikiの夜泣き石 (小夜の中山)の項ではちょっと違う結末だった)

そんな石があったなら寄っておけば良かったな、と読み進めると

本堂の東側には、伝説の夜泣き石が奉られています。久延寺境内にある夜泣き石は、昭和三十年代に峠の人たちが石の段(夜泣き石があったところ)で見つけて、寺へ運んできたものだそうです。浮世絵に描かれた夜泣き石は、バイパス沿いの小泉屋裏手に祀られています。([昭和の夜泣き石]

工エエェェ(´д`)ェェエエ工、違う石かよ


関連リンクをたどると

小泉屋裏手にある階段を登ると小さな広場があり「夜泣き石」が祀られています。夜泣き石は、明治元年まで浮世絵に描かれているように東海道の道の中央にありましたが、諸事情から何度か移動されて現在は小泉屋裏手に置かれています。また、ここには菊川から出たという平らな形の「菊石」も祀られています。(「小泉屋裏の夜泣き石」

なぜ夜泣き石が小泉屋にあるか
夜泣き石は、明治元年天皇が東幸するにあたって畏れ多いとして、沓掛の茶店に動かされました。それから久延寺境内に移した後、明治十四年に東京浅草で開かれた「勧業博覧会」に夜泣き石を出品することになりました。しかし、すでに東京ではハリボテの石の中に子供を入れて泣かせる偽物の夜泣き石が評判を得て稼いでおり、本物の夜泣き石は「少しも泣かない」といって不評に終わりました。焼津港まで運んだものの、お寺まで運ぶ費用が無く雨ざらしになっていました。それを中山新道からお寺まで運ぼうとしましたが、急坂のため運びきれずに峠の下の小泉屋の庭先に置くことになったそうです。 (同上)

こんな扱いされたら、そりゃ泣くわ。・゚・(ノД`)・゚・。


夜泣き石でぐぐってみると、他の地域でもちらほらとヒットする。

伝説 夜泣き石
洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く(釜井庵の夜泣き石(塩尻市)

1564年、第二次国府台合戦の時、敗戦した里見方の戦死者は五千余名にものぼり、
そのとき里見軍の武将、里見弘次も戦死しました。
それを知った弘次の末娘の姫は、この父の霊を弔うため、はるばる安房の国から
この戦場へとやってきたのですが……、
姫はまだ十二~三歳、あまりにも凄惨な戦場の跡を見た姫は、恐怖と悲しみから
傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついには絶命してしまいました。
その後、姫は埋葬されましたが、姫の魂はその場に残り、姫がもたれかかった石からは、
毎夜「しくしく…」と女性のすすり泣く声が聞こえるようになり、
里の人々は、その石を「夜泣き石」と呼んで、たいへん怖れたそうです。(夜泣き石(市川市)

芦名時代、事情あって捨て子にされた子供どもが、夜中に魔物に呼び寄せられ喰い殺されようとした時、夜明けまで大きな石がしっかりと子供の足をおさえて魔物に喰い殺されるのを防いだと言われている。今でも子供の左足型のようなものが残っている。
 また夜泣きする子をおぶって、ここにお参りすると夜泣きがぴたりと止まるという噂が立ち、多くの母親が子供を連れてお参りした。それ以後、夜泣き石と呼ばれている。(夜泣き石(福島県川東町)

天人が余呉湖で水浴びをしていたとき、桐畑太夫が衣を隠して、天人を嫁にした。2人の子ができたが、天人は子守娘の唄から衣の場所を知り、天に帰ってしまった。子守は子を石の上に放って帰った。赤子が泣いたらその声が読経の声であったので、菅山寺の住職はその子を連れ帰って育てた。それが後の天神様。この石はその後も夜毎に泣いたので夜泣き石といわれ、耕地整理で動かそうとしたら祟りがあった。(余呉村の民俗―滋賀県伊香郡余呉村―

大塚山丘陵では、毎年不思議な出来事が起こっておりました。その出来事とは、空がうっとうしく垂れ下がり風がなま暖かく頬をなでると「グオーン、グオーン」と、まるで神から見はなされた者が地面を這いずって泣くような、不気味な音で大塚山の巨大な牛石が泣き始めるのだそうです。(消えた牛石(夜泣き石)(大塚山丘陵にまつわる話四話その二)※"https://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,963,53,267,html"にアクセスすると"この接続ではプライバシーが保護されません"と表示される…?

この石は200年ほど前に国分の浜へ落ちてきたといわれています。夜ごと物悲しげに夜泣きして、近所の人たちを怖がらせたので、寺の本堂前に置いたところ、夜泣きはピタリととまったといわれています。
石を叩くと金属音がします。
(隕石だったら伏木は今ごろ消滅してクレーターとなっているハズ…などとは考えないように)
天から降ってきたかどうかは定かではありませんが、浜辺にあったことで、潮の満ち引きに合わせて何かが石に触れ、「カーン、カーン…」と音を立てていたのかもしれません。
石自体は安山岩(サヌカイト)であるという説が有力ですが、いつから運び込まれたのか、何故これを持ち込んだのか、色々想像してみるのも面白いですね。
天から降った石(本堂前)


この中で由来が異なるものは福島県川東町の話か。
これだけは石が音を発していない。原型に巨石信仰などがあるのだろうか。
滋賀県の天女伝説系も元の説話が変化したもののように思える。
塩尻・市川は恨みや嘆き系、ここ日坂の話は母の情愛系か。
松原市の話は音を発するものの中でも微妙に違うような気がする。
風とか雪解けとかそういった定期的に発生する自然現象によって起きているような。
他の音はすすり泣くような音だし。
高岡市の石は隕鉄なんじゃ…( ・´ω・`)? でもサヌカイトらしい。

讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。(讃岐岩

なんらかの振動と共鳴して石が泣くのかなぁとぐぐっているとサヌカイトの楽器というページに辿りついた。昔は石も楽器だったんだなぁ。まあ結局のところ、なんで泣くかはよくわからなかった(w 

ス~ト~ン~なぜ泣くの~スト~ンの~勝手でしょ~(・∀・)♪


日坂へ向かう途中に店屋らしきものはあったが閉まってたり、
開いてるかどうか不明だったので先を急いだ。
シーズンオフということだったからか、はたまたこの辺は月曜日定休なのか(´・ω・`)
食料品店もあったが、坐って食べたかったのでスルー。
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小夜の中山公園 小夜という文字を見て
氷高小夜を思い出す俺はギルガメ世代のおっさん(*´・ω・)
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一里塚x2、鎧塚、白山神社、道x2
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馬頭観音
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よくある荷役に使われていた馬達を弔うものかと思ったがちょっと違うようだ。
蛇身鳥(蛇身鳥物語)という昔話があり、その蛇身鳥を退治しにきた三位良政が、
乗ってきた愛馬を葬った場所らしい。

深彫り欄間「小夜之中山蛇身鳥物語」を読んだり子育て飴の話を読むと
蛇身鳥と夜泣き石の話もごちゃまぜになっていて良く分からない(w

蛇身鳥の話自体がインドか中国原産の話をベースにしていて
そこに子育て幽霊の話も混ざってるような気もするし…。
案外、蛇身鳥は子の死を嘆く母などではなく、
猛禽類や盗賊豪族の類とかだったりして(・∀・)


ここの休憩所で一休み。
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ちょっと進んだところに夜泣き石跡が。
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もう後は下るだけ。
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写真は沢山撮ったが、ほとんど立ち止まることもなく通過した。
日坂宿でも食べ物屋さんが見当たらず。
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古宮橋を越えてしばらく行くと415号線に合流。
村の境界が。昔は色々と争いなどがあったんだろうか
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事任八幡宮 ことのままと読むのか。
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また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。(事任八幡宮

とあるが、「東海道中膝栗毛」のどの辺りだろうか。三編上では日坂宿に泊まって巫女と一騒動を起こしてるだけだし…三編下の冒頭の「ふるみや誉田の八幡を打過、」とあるからこれのことかな?このあと話は掛川の方に行ってしまうし。事任八幡宮のページにも「東海道中膝栗毛」からの引用はない。

事任八幡宮の御由緒に

江戸時代の記述では、「己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡宮を称す。延喜式内佐野郡に属す」とあります。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」でした。旅に携えた東海道の道中案内図などには必ずと言ってよいほど誉田八幡が記されていました。この時代は「ことのまま」が忘れられかけた「ことのまま」空白の時代でした。(御由緒

とあるから恐らくそうだろう。ってガイドブックに「誉田八幡宮」って書いてあった(w
まあ何にしても「願い事が叶う神社」としては出てないから他の文物といっしょくたの表記にしちゃうのは違うような。


雄鯨山・雌鯨山というのがあるらしい。
空腹と疲労で全然気がつかなかった。
途中、道の駅があったけれど道を渡って更に奥まで行かないと駄目そうだったので先を急いだ。
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八坂インターチェンジを越して250号線に入りしばらくしてまた一号へ途中塩井川原なる場所があるが、弥二北が猿市犬市を騙そうとした塩井川なのかな。

福天大権現の参道標、一里塚
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火の見櫓だ(・∀・)
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一号線と合流したり離れたり。
座って食べるんだとか思っていたのに最終的には空腹に耐えかねてコンビニで買ったパンとおにぎりを食べた。

本村橋?から左の道へ入る

逆川の鳥、岩橋
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秋葉山常夜灯
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大頭龍大権現
平岩佐平隠居之地
誰だろう?ぐぐってもヒットしない。

伊藤嵐牛門人とある。伊藤嵐牛でぐぐるとヒットする。

伊藤嵐牛は、寛政10年(1978)に掛川市八坂に生まれた。幕末から明治にかけて活躍した俳人で、松尾芭蕉の流れを汲む鶴田卓池に入門した。また、和歌国学を石川依平から学んだ。
浜松から静岡までに、約300人の門人を養成し、門人の一人に松島十湖がいた。その生家は、嵐牛蔵美術館として開放(事前予約が必要)されている。

門人は300人居たということなので、その中の一人なのか。ということはどうでもよくて、
なんで植田まさしのカリアゲくんの絵が…こいつは一体( ;・´ω・`)ゴクリッ

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真新しい常夜灯。逆川にかかる馬喰橋を渡る。この辺から掛川宿側か
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23.島田宿

23.島田宿(2007.11中旬)の続き
最寄り駅はJR島田駅。

7:40くらいに出立。大井神社、ご当地キティ御大。
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やはりこの時間は通勤通学ラッシュに遭遇してしまう。若さがまぶしい。
老いてまぶしきはただ頭頂部ばかりのみよのぅ…("・ω・゙)

34号線をしばらく進み東海パルプの前辺りで左の道へ
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何やら急に家並みが変わったと思ったら
島田宿大井川川越遺跡町並という国指定の史跡らしい。
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川越し人足の数は、初め、島田、金谷でそれぞれ350人と決められていましたが、幕末には650人を超えていました。(島田宿大井川 川越遺跡

そんなに居て仕事にあぶれなかったんだろうか?

常夜燈やらなにやら。
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島田大堤(しまだおおつつみ)       
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。
恐らくこの頃(天保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三.六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五.七三三m)と記録されています。
今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。 島田宿史跡保存会

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八重枠稲荷神社
昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。
宝暦十年(一七六〇年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。
社殿は文化九年(一八十二年)と明治三十四年(一九〇一年)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
川石は硬くて加工に手間がかかり、いまでは市内に数ヵ所残るのみの技法です。

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大井川前の川越広場に着く。川べりは風が強く寒い((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
広いなぁ。トイレやらなにやら。
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朝顔の松
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昔、ここに1本も大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘「深雪」が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き「宮城阿曽次郎」という青年と恋仲になります。その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流して歩いていると、ある座敷から声がかかります。この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。その時、はじめて目に映ったのが大きな1本の松でした。この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り一メートル五十六センチ・高さ二十メートル)でしたが惜しくも昭和十年に枯
                                平成16年3月再築
れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。書かれている題辞は「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」(フウショウヒサシクホウスシュンガノキョクコズイナオトトムゴゼノタマシイ)で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。この物語「朝顔日記」は、江戸後期(一八一一年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。島田市

なん一昔前の少女漫画か昼のメロドラマみたいだ(w
やっぱり昔から人はすれちがい展開が好きなんだな。


東海道中膝栗毛では弥次が侍に化けて安く川を越そうとして失敗している。
あわやという時に狂歌を詠んで双方大笑いになって逃げ出すってどんなコントだ(w

東海道とは関係ないんだろうけれど、島田駅南東部にある蓬莱橋は
ギネス認定の「世界一の長さを誇る木造歩道橋」なのか(・∀・)


川越人足もいないので右折して大井川歩道橋へ。
長かった。1km弱ぐらいあったかな?
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川を渡り旧東海道の道標に従って左折し200mほど歩いて右折。
越すに越されぬ大井川を越したら、もう金屋宿側か
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24.金谷宿(2007.11中旬)
最寄駅はJR金谷駅。
新堀川に架かる八軒屋橋を渡る。
地図でみると200mほど南に行ったところに水神社があるな。
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朝食は金谷駅でとればいいやと甘く考え、コンビニにも寄らず、食事もとらず。
大井川鉄道の車両をみてやな予感がしだした(´・ω・`)

大井川鉄道の踏切を越えて228号、大代川に架かる往還橋を渡る。
横にある古いのが大代橋か? 途中に秋葉神社があった。
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道路を横断、道なりに。ヤオハンってまだあったのか。
清水川にかかる清水橋を渡る。清水川起点
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473号線を進んでいく。
佐塚書店横に本陣跡の看板?
柏屋本陣跡なるものもあるのか
のぼり坂の商店街を登って行く。バキュームカーだ、くっさーヽ(`Д´)ノ
岩淵辺りで見て以来だ。この辺りも下水配備してないのかな?
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金谷駅手前に一里塚跡。
高架の下を通って金谷駅の裏側に出る。なんもない(´・ω・`) 表側ならなんかあったかも?
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空腹のまま進んでいくと、なんだか長い登り坂。うへぇ
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なんだろうかこの祠?
473号を横断、と石畳茶屋とかいう道案内が(・∀・)!!
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喜び勇んで石畳の坂を登ると、人気がない(´・ω・`)? 
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( ゚Д)
( ゚Д゚)
( ゚Д゚ ) 「休館日」

…ベンチに坐り手持ちのクロレッツをかみしめながら、
金谷の石畳を仰ぎ見る。かなりきつそうな…。
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鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。(中略)
なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗
日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

日本左衛門て誰(´・ω・`)?

日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島 庄兵衛。(中略)
後に日本駄右衛門として歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたために諸説入り乱れているのが現状である。(日本左衛門

序幕で若侍の姿であった菊之助がこの3幕冒頭では娘姿になっており、更に
正体がばれると男に戻って啖呵を切る、というこの変り身の激しさはこの役
を難役にしています。(日本左衛門の処刑(1747)

弁天小僧菊之助てこれが元なのかΣ(゚∀゚;)
パタリロで知ったからマライヒのイメージが強い。
でもこれだと衆道っ気はなさそうだな。やはり衆道は武士階級の嗜みだったんだろうか。
まあ劇中人物だしなぁ。 
なんか他にもページがあった。人物クローズアップ第10回[東海道]


ぜーぜーいいながら登っていくとすべらず地蔵。絵馬を見るとやはり受験のものばかり。
静岡の人ばかりかと思いきや埼玉・神奈川の人とかも来てるようだ。
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更に坂を登って行くと五つ子楠。
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立てかけてあった木の立て札には

五つ子楠
朽ち果てた親木の根を囲んで生える五本の若木。今なお親子の固い絆に結ばれた「五つ子楠」は金谷坂石畳を往来する旅人の無事を祈りつつ成長しています。

とあった。


茶畑、NHK金谷テレビ中継放送所、ガムの自動販売機Σ(゚∀゚;)
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なるほど粘土質で歩きにくかったから石畳を敷いたのか。
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金谷から菊川の石畳を過ぎ、間の宿・菊川までくる。
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特に食事どころっぽい店はない。
なんとか会館も開いてるのかどうかもよくわからないので先に進む。
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一山越えたとほっとするのもつかの間、日坂が待っていた。
すげー登り坂Σ(゚∀゚;) 半端ない。
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