48.坂下宿 (2007.11中旬)
最寄り駅はガイドブックによればJR関西本線・亀山駅。
三重交通バスで関駅を経由して「伊勢坂下駅」まで行くらしい。
途中サークルKサンクスがあったのでパンとか買って鈴鹿に備える(`・ω・´)
雨はやんでいた、というより、こーいうお天気雨がでふぉなのかもしれない。
1号線を走る貨物トラックがうなり、轟音と振動が辺りを埋め尽くす中、先へと急ぐ。
さっそく転び石を見逃す(´・ω・`)
1号線の途中に筆捨山。
ちなみにここにある山の画像は筆捨山かどうかわからない(w
単純に山にかかる雲の影と晴間を撮りたかっただけ。
なんか立て札とガイドブックの筆捨山の説明が違うような(´・ω・`)
裏手の山が名勝・筆捨山である。あまりの素晴らしい景観に、
絵師も筆を捨てて眺めたので、この名前がついたといわれる。
(新版・完全 「東海道五十三次」 ガイド (講談社+α文庫))
亀山市名勝 筆捨山 昭和五十三年九月二十二日指定
東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高二八九mの山である。もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。
江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。
歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪の下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。
浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。
平成十九年三月 亀山市教育委員会
"筆捨"でぐぐって見ると筆捨岩、筆捨の松、筆捨の岡、筆捨の島などが引っかかった。
このうち筆捨の島は橘南谿著「東遊記」に出てくる松島の群島の内の一つの
ようだけれども、Webでは詳しい内容はよくわからない。(おくのほそ道 [資料集])
これは地誌とかを調べないとこれ以上の情報は出てこないかも。
筆捨の岡は
水茎の岡
秋風の 日にけに吹けば 水茎の
岡の木の葉も 色づきにけり
顕 昭万葉集をはじめ古今、新古今等々の歌集の中に天皇、公郷、法師、文人墨客達が、この水茎ヶ岡を読んだ歌は四十有余残されており、文芸史上随一の名勝地であったことがうかがわれる。伝説によれば、巨勢金岡がこの名勝を画かんとしたが、余りの見事さに筆をすてたことから筆捨の岡、水茎の岡、筆ヶ崎、硯ヶ淵等の名を残している、又、この背後の山には、永正五年(一 〇 )九里氏が城を築き京を逃れ、足利義澄を迎へ十二代将軍足利義晴は生まれている。
平成七年十一月
近江八幡市教育委員会(
近江八幡ちよいポタの"水茎の岡の案内"の画像より)
とあった。(公郷→公卿?)
これは絵師が名勝地の美しさに圧倒されて筆を捨てた話(パターン①)だ。
筆捨の松は神奈川県横浜市金沢区の
この近くには「筆捨の松」がありました。
平安時代の絵師巨勢金岡がここから金沢八景の絶景を描こうとしたところ、
あまりの美しさに筆を捨てたという逸話が残っています。
(金沢道(かねざわみち)の能見堂跡(のうけんどうあと)付近)
というパターン①と、
案内書には、宮廷画家・巨勢金岡<こせのかなおか>が金沢の勝景を描こうとしたが、千変萬化する絶景に筆が進まず、ついに絵筆を松の根元に投げ捨てたとか、関白・藤原道長がここに草庵を結んだ等の逸話をのせている。逸話の史実は疑わしいようだが、能見堂を観光地として売り出すため、知恵のある著者が平安貴族まで登場させて創作したのかも知れない。
(NO.9 金沢随一の眺望・能見堂)
という絵師が変幻自在の対象物を描くことを諦めて筆を捨てた話(パターン②)が
あった。
また、和歌山県の熊野古道には
画像左手掲示板の後ろの松が筆捨松です。由来は「投げ松」から始まります。昔、舒明天皇(629年~641年)が、熊野へ行幸の途中、藤白峠で王法の隆昌を祈念して、小松を谷に投げられたそうで、行幸の帰りに見ると小松が根付いていたので吉兆であると天皇は喜ばれたという。爾来、「投げ松」と呼ばれるようになった。
その後、885年平安初期の頃、絵師巨勢金岡が熊野詣で藤白坂にさしかかった時 童子に競画の果たし合いを申込まれた。金岡は松に鶯の絵を描き、童子は松に烏の絵を描いたそうな。その時、両者が相手の絵の鶯と 烏をお互いに手で追っ払ったところ、両方とも飛び去ったそうです。次に童子が烏を呼ぶと、どこからともなく飛んできて童子の絵の中に納 まったという。
しかし、金岡の鶯は呼べど叫べど二度と帰らなかったそうな。怒った金岡は、無念!と筆を投げ捨てたところ、丁度その筆が「投げ松」のところに落ちたので、爾来 「筆捨松」と呼ばれるようになったそうです。童子は熊野権現の化身であったと伝えられています。
(熊野古道(藤白坂)を歩く)
という絵師が腕比べで負けて筆を捨てた話(パターン③)があった。
筆捨の岩は
昔、巨勢の金岡が佐名伝を通りかかって、この景色を見て心うたれ、これを絵に書きとどめておきたいと考えて、村に足をとどめて毎日写生に出かけた。ところが奇岩の写生にいくたびにその姿をかえているために、書き改めねばならず、数日そういうことを繰り替えしたがいつもいつも書き直しばかりで、どうしても絵を完成することができず、ついに筆を捨てて村を去った
と言う言い伝えからその呼び名があるわけである。岩が日々その姿を変えると見られる。
(佐名伝自治会文化財&遺跡 ~筆捨岩~)
いうパターン②の話があった。
また筆捨岩には
● 筆捨岩 五條市東阿田町/八田町(旧宇智郡大阿太村東阿田/南阿太村八田)
筆捨岩は東阿田や八田及び大淀町佐名伝<さなて>付近の川中にある。筆捨岩のすこし上流には、長岩といって、馬の背のような岩が一〇〇メートルあまり続いている。いま一つナガ岩というのもあり、いずれも吉野川の中流につき出ている。この筆捨岩は上が平面になって、人の足跡が一つ残っている。昔、弘法大師(あるいは狩野法眼、または金岡ともいう)がここを通り、付近の風景を絵にかこうとしたが、岩がみな水に逆らって動いて、どうもうまく描けないので、筆を捨ててしまったという。
(森田実・亀多桃牛・阪之上夏三)
五条の伝説
というような表記もあり、巨勢金岡ではなく、筆捨山と同じく狩野法眼とする説もあるようだ。
以上の3パターンの内、①、②はその名勝に箔をつける為のものであり、
③は熊野権現を持ち上げるというか、霊験あらたかであることによる箔付けや
人間の増長をたしなめる説話的なもののようだ。
何にしても不名誉な感じで名前を利用される巨勢金岡と狩野元信カワイソス( ´・ω・)
弘法大師は他の逸話では活躍系が多いからいいけれど(w
金沢区のパターン②はもしかすると他の話のパターンに
熊野権現の話を混ぜたような感じもする。
真相は定かではないけれども(w
しばらく進んで1号線から右側の道へ入る。
1号線と別れた後は比較的静かに(・∀・) 車もまばらだ。
道なりに進む。楢の木のバス停
坂下宿に柱に53次の各宿が書いてあって立っていた。
鈴鹿馬子唄会館 なんか不思議な建物
道なりに進んで行くと、大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡、小竹屋脇本陣跡
道を進んで行くと身代わり地蔵尊
謎の石像二体。旅行当時はなぜか松尾芭蕉とその弟子の曽良だと思い込んでいたが、
どうも翁と媼の老夫婦の石像らしい。他の東海道紀行文を読んでも謎とか不明と書かれて
いてよくわからない。
亀山市が平成20年に出した亀山市歴史的風致維持向上計画にも載っていないようだ。
その辺を踏まえると私的に建立したものなのかな?
いつの日か、この謎を解き明かす勇者が現れるのを待つしかないのぅ("・ω・゙)
でも箱根の新興宗教みたいな感じの話だったら嫌だな。
鈴鹿峠キタ━━━━━━ヽ(゚∀゚)ノ━━━━━━ !!!!!
けど、あんまりつらくない(´・ω・`)
途中までは高尾山の一号路みたいにコンクリで道が整備されていたからか。
1号線の下をくぐって休憩所に。
もう晩秋なのに滝のような汗をかく(・∀・;)
汗っかきは辛い
やっぱり不用意に山に入って遭難する人とか居るんだろうなぁ。
箱根峠だか新箱根峠だかを真っ暗になってから越えようとした人間なので耳が痛い(∩´・ω・)
万人講大石灯籠のある休憩場所。トイレがあった。
石灯籠は38トンもあるらしい。地震で倒れたら重機でもないと直せないな。
なんか思ったよりつらくなかった(´・ω・`)
もしかしたら毎日の歩きでパワーアップしてたのかも。