カテゴリー: 散歩

17.興津宿

17.興津宿(2007.11初旬)

最寄り駅はガイドブックによるとJR興津駅。薩埵峠からだと結構距離があるなぁ。
人影もほとんどなく静かなところだった。

看板、往還坂x2、坂、石柱、秋葉山常夜燈
09_0159.jpgP1010196.jpgP1010197.jpg
P1010199.jpgP1010200.jpgP1010201.jpg


上道を歩いたのでちょっと遠回り(´・ω・`)

これなんだろ?貯水場でもなさそうだし。
09_0166.jpg

道x3、味のある家
09_0167.jpg09_0168.jpg09_0169.jpg
09_0170.jpg

みかんのなる家、瑞泉寺、ただの車止め…?道祖神ではないよな…?
P1010207.jpgP1010208.jpg09_0173.jpg


「イルカあります」という魚+雑貨屋さんがあったのでちょっと聞いてみたが、
日もちしないということで諦める(´・ω・`)
P1010210.jpg


道x2、牛頭観音
09_0175.jpg09_0176.jpgP1010213.jpg

興津川も昔は川会所があったのか。つい最近、興津川中流で水難事故があったらしいし、
それなりに急流だったんだろうか。

新興津川橋の向こうに見えるのは駿河健康ランド。
出発前の計画では夜に入って宿泊費を浮かそうと思っていたが、
江尻までは行く予定だったのでスルー。でもこの時かなり足が痛かった。

東町公園やら浦安橋やら鳥
09_0178.jpg09_0179.jpg09_0180.jpg
09_0181.jpg09_0183.jpg09_0185.jpg


浦安橋を渡ってちょっと行ってから右の道へ。道なりに行くと最終的には1号線と合流。

P1010223.jpg
「女体の森」という文字を見て興奮する(*´Д`)ハァハァ
ぐぐってみると、

宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)。 日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、または宗像三女神を祀る神社の総本社である。
「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では辺津宮のみを指す場合も多い。(宗像大社

とあった。

他のページでは、かつて漁師たちが女体の森を目印としていたことや、沖津姫の名が興津の地名の由来であると書いてあったが、

 東海道五十三次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。興津という地名を現在正式地名とされているが「興津」、「息津」、「沖津」と書き、ともに「おきつ」と読む。

 地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する,というのが正しい説とされているが、実際は鎌倉期からの郷名、当郷は代々「興津氏」の知行地で鎌倉幕府からその知行をさずかっている。(興津支所/興津ガイド

と地名に関しては諸説あるような感じ。


見延山道、一里塚、看板
P1010225.jpgP1010226.jpgP1010228.jpg

見延山て何処まで行くんだろうって思ってみたら、直線距離で35km以上かΣ(゚∀゚;)
まあでも昔の人は一日で30-40km歩く人も居たみたいだしなぁ…。
minobe.jpg


お腹が減ったので興津駅近くで飯屋をさがす。
東海道沿いで蕎麦屋ととんかつ屋があったんだったかな?
肉が食べたかったので悩みに悩んでとんかつ屋に入った記憶が。

結論から言うと、えーと、大失敗でした(´・ω・`)
時間帯がお昼時じゃなかったからやる気なかったのかな。

どストレートな道x2、興津宿西本陣址、やっと166km
09_0192.jpg09_0193.jpgP1010232.jpgP1010234.jpg


食事で気分を害したのでスルーモードで先を急ぐ。

清見寺やらなにやら
09_0199.jpg09_0200.jpgP1010239.jpg
P1010240.jpgP1010241.jpgP1010243.jpg


なんか立派そうなお屋敷・坐魚荘を横目に見つつ波多打川辺りで左折?道なり?
その後、突き当たりを右折。庵原川橋を渡る。

坐魚荘x2、波多打川x2、東光寺、。庵原川橋?x2
09_0208.jpg09_0209.jpg09_0210.jpg
09_0211.jpg09_0213.jpg09_0215.jpg
09_0216.jpg


細井の松原辺りまで来ると足裏が痛いわ、腹は痛いわでえらい状態に(´・ω・`)

無縁さんの碑 細井の松原無縁さんの碑
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和十九年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。平成十三年、東海道四百周年を記念しこの石碑を建立した。平成十四年三月「生き活き」街づくり辻の会

昭和19年というと太平洋戦争中か。
松並木を伐採しなくちゃいけないくらいに物資が足らなかったのか。

もう夕方近くでフラッシュを焚かなかったのでブレブレ(´・ω・`)
09_0221.jpgP1010261.jpg09_0223.jpg


足をマッサージしてなんとか歩をすすめるも清水駅のちょっと手前で雨がぽつぽつと。
とりあえず用便のため、セイユーに。ふーあぶなかった(・∀・)

体力も限界に近い為、今日はここまでとした。もう江尻宿の辺りなのかな?
静岡までは230円なので往復460円をプラスしても安い静岡のホテルにしようかと思ったが、
疲れたので清水シティホテルにする。風呂に入り、ジャージに着替え、駐車場横の洗濯機で洗濯。

その間にセイユー6Fのダイソーにてマッサージボールと爪切購入。
乾燥機。ローソンでYA290。疲れたのでマックで夕食を買い部屋食い。

駅から出て左にアーケード。犬を散歩させている人が居る。
糞は周りに人が居るからか回収してたが、小便に関してはノータッチだった。
あれはOKなんだろうか(w

09_0230.jpg09_0232.jpg09_0233.jpg
P1010265.jpgP1010266.jpgP1010267.jpg

約31.5km 歩数データのファイル何処行った (・ω・`≡´・ω・)

357-31=326

なんかガイドブックと残りキロ数が30kmくらい違う…どっか抜けてるのかな(´・ω・`) ← 小田原宿辺りから数値が間違っていた(ノ∀`)

品目 金額 備考
昼食 とんかつ 810
夕食 ビックマックセット 620
洗濯機 200
乾燥機 300
マッサージボール・爪切 208
ヤングアニマル 290
ジュース類 430
清水シティホテル 5800
累積使用金額 35,767円 残り: 326km

16.由比宿(2)

蜜柑畑の細い道をゼーハー言いながら上っていると何やら怪しい機械が( ・´ω・`)
モノカーと書いてある。蜜柑運搬機か(・∀・)!!

どうも永田というメーカーの物らしいけれど、ぐぐっても出てこない。
もう潰れてしまったのか他の企業と合併してしまったのだろうか。
モノラックとかいうのもあるらしい。

弥次喜多看板、モノカーx2、八坂神社、権現橋x2
P1010127.jpg09_0092.jpg09_0093.jpg
09_0095.jpg09_0099.jpg09_0100.jpg


石碑やら何やらが色々とあった。
コンクリート防壁を作る前は道沿いにあったものなんだろうか。
P1010130.jpgP1010133.jpgP1010134.jpgP1010137.jpg

鞍佐里神社、橋、明治天皇御小休所跡
09_0102.jpgP1010140.jpg09_0105.jpg


段々坂がきつくなってくる(´・ω・`)

一里塚跡x2、、坂、看板
09_0107.jpg09_0108.jpg
P1010142.jpgP1010146.jpgP1010152.jpg


モノラック発見(・∀・)!!
モノラックでぐぐると幾つかの会社がヒットするけれど、何処が商標を持ってるのだろうか?
09_0111.jpg

薩埵峠へ向かう途中というか進行方向逆にあるわき道を登ったところからの風景
09_0112.jpg09_0113.jpg09_0114.jpg

薩埵峠へ向かう途中のスペース。ここは道が狭いのに車が通ってるから、
ここは行き違う為のスペースなのかな?
09_0117.jpg09_0118.jpg


薩埵峠
由比薩埵峠間はそこそこ観光客が居た。無人販売の早生みかんは一袋100円だった。
考えてみると空腹状態で上っていたんだな。さった峠はえらく眺めがよく爽快だったけれど、
残念なことに雲が多く、富士山は見えなかった(´・ω・`)

駐車場(トイレ)、展望台、休憩所風景など。
09_0119.jpg09_0120.jpg09_0124.jpg
09_0125.jpg09_0126.jpgP1010163.jpg
よくみると富士市の煙突も確認できた。
entotsu.jpg


しばらく休んでから出発。

柵やら何やら。山ノ神という石柱があった。牛房坂というのもあったが何の説明もない。
牛蒡が沢山とれたとか牛舎があったとも思えない。由来がわからない。
09_0129.jpg09_0130.jpg09_0131.jpg
09_0132.jpgP1010169.jpg09_0135.jpg
P1010173.jpgP1010174.jpgP1010175.jpg
09_0140.jpg09_0142.jpg


薩埵峠の歴史
 鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩た山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)
 ここに道が開かれたのは一六五五(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
 この道は大名行列も通ったので道巾は四メートル以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。
 今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1一八五四年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。

興津地区まちづくり推進委員会

09_0144.jpg09_0145.jpg

道が分かれていたが、上の方は行き止まりだった。
09_0146.jpg09_0147.jpg09_0148.jpgP1010183.jpg

仕方がないので下へと向かう。
P1010185.jpgP1010186.jpg09_0151.jpg


興津側に降りていくとお墓に出た。
興津側の入り口辺りにストックが一杯。無料貸し出ししてるのか。
09_0153.jpgP1010188.jpgP1010190.jpg

休憩所(トイレ付)があり、人もあまり居なかったのでしばし休憩する。

足が (゚ー゚)(。_。) ガッチ  (゚ー゚)(。_。) ガ チ だった(´・ω・`) ←※コンビ解散してしまったのでもう伝わらないネタ(ノ∀`)
    

しばらく休んだ後、人の声が聞こえてきたので、急いで出立(w
09_0155.jpg09_0156.jpgP1010194.jpg

16.由比宿

16.由比宿(2007.11初旬)

ガイドブックによると最寄駅は「JR由比駅・宿場の中心までは、駅をおりて東へ、
徒歩約二五分」とあるから、80m換算で2kmかΣ(゚∀゚;)
地図ソフトで由比本陣公園までの距離を測ってみると100mほど蒲原駅からの方が
近いかも。それでも1.7kmくらいあるけど(w

途中、水神の石碑があった。ちょっと珍しいなと思い写真に収めた。
道祖神と刻まれた石碑は何度か見たような気がするが、水神はここくらいだったかな?
ちょっと思い出せない(´・ω・`)

ここ寺尾には昔、南方寺という真言の寺があり地名の起源となったと伝えられている。昔の家並 みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和2年(1682)高台に新道 を改さくし東海道とした。現在の街道は当時のままの道幅で、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみ ることができる。(由比町) (東海道五十三次の16番目「由比宿2」

災害事例 津波
★1854/12/23 (安政元年) 安政東海地震津波
 静岡県沿岸各地は大津波に襲われた。当地では古記録によると地震直後に津波がおそい、1.5町も潮が引いた。津波の高さは2m程度であった。
静岡県市町村災害史 由比町

海岸線に近いところだから、その分水害が多くかったんだろうなぁ。
その結果として普通の神様じゃなくて水神様を祀ってるんだろう。

神沢川酒造場、神沢川、神沢川橋?、看板、水神、道祖神?
P1010082.jpgP1010083.jpgP1010084.jpgP1010085.jpg
P1010086.jpg09_0052.jpg


一里塚跡

一里塚
慶長九年(一六〇四)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、東海道・東山道・北陸道に設けられ、一里が三十六町、一町が六十間と定められ、塚には榎や松の木が植えられた。
由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文年間(一六六一-七一)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。

平成六年三月
由比町教育委員会

09_0053.jpgP1010089_20090504014101.jpg

古風で立派な木造住宅x2、お七里役所之跡。
09_0056.jpg09_0057.jpg09_0058.jpg


由比本陣公園
足の裏がガチガチになって耐え切れず、由比本陣公園に入って
建物併設のベンチで休んだ。
老人会のバスツアーらしき集団を眺めつつ足をマッサージ。
敷地は狭いけれど整備もされていて綺麗な公園だった。
併設の東海道広重美術館は有料かもしれないけれど、公園自体は無料だった。
09_0059.jpg09_0060.jpg09_0061.jpg


由比正雪の生家、本陣公園入り口、おもしろ宿場館
09_0062.jpg09_0063.jpg09_0064.jpg

由比正雪
由比町(駿府宮ケ崎町との説もある)の紺屋の子として生まれる[1]。
幼い頃より才気煥発で17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰(楠木不伝)の弟子になるとその才能を発揮し、やがてその娘と結婚し婿養子となった。(中略)
慶安4年(1651年)に、「由井正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47
由比正雪

慶安の変てこないだ読んだ「保科正之」でちょっと出てきたな。個人的に由比正雪というとパタリロの8巻くらいに出てきた天狗党のボスというイメージしかない(w


そういえば鎌倉にも由比ヶ浜ってあるな( ・´ω・`)
「由比ヶ浜 由来」でぐぐると

「由比ヶ浜海岸」の名からつけられました。「由比ヶ浜」の名のおこりははっきりわかりませんが、由比というのはみんなで助けあう「ゆい」からきているともいわれます。また、むかし由井郷にあったので、その名がついたともいわれています(Kamakura GreenNet

今は「由比ガ浜」と書くのが普通になっていますが、むかしは「由井ヶ浜」または「油井ヶ浜」と書いたものが多かったようです。また稀には「湯居」とか「湯井」などとしたのもありますがこれはどちらも誤りだとされています。
江戸時代には「由比」と「由井」が混用されていましたが、次第に「由比」が多くなり、明治になってからは殆ど「由比」に統一されるようになりました。
 改めて申すまでもなく、この名称は海岸のもので、現在のように地域の名になったのは正確な年月は不明ですが、大正の頃からからだと思われます。(中略)
  結という言葉は、結合とか共同という本来の意味から転じて、労働力の交換を意味する言葉になっています。
 元来は一族の間でのことだったのが、後には隣近所での手助け、手伝いにまで拡がっています。つまり、むかしは村人がお互いに手伝い合って漁をする海岸というので「ゆい浜」と呼ばれていたのだと思われます。共存共栄を念願とする町にとって誠にふさわしい名と申すべきでしょう。(歴史でわかる商店街

とある。
由比町の方も

由比町の由比という文字には『結(ゆい)』という、漁師たちの互いを助け合い、思いやる共同作業に由来するという説もあります。由比町といえば桜えび漁。由比には、由比、蒲原、大井川の3地区で、サクラエビの水揚げ量を全部足して、それを均等に分けるプール制が存在します。プール制があるのは、全国でもここだけ。他を思いやる、由比町民の気質が表れた制度ですね。(とく報!

とある。
更にぐぐりざるとを見て行くと

「ゆい」地名は、「たゆい」地名と同じく、民俗学的には漁村に多い共同作業の「結 ゆい」慣行のあった場所につけられたとされるが、地形名の場所も多い。(目からウロコの地名由来

とあった。 他は「たゆい(田結、手結)」だから今ひとつ決定打にかける説だなぁ(´・ω・`)まあ由比ヶ浜も由比町も長い砂浜を持っているから共同作業とかはやりやすそうだけども。


空腹だったが、由比特産は桜エビということでパスした。
今考えてみたらしらすなんとかでも食べれば良かった。
秋の日差しの割に強く、今日も日焼けした。さった峠へ向かう坂はきつかった。

看板とちょっとかっこいい清水銀行、道、記念碑、由比川、由比川橋
P1010101.jpgP1010102.jpgP1010103.jpg
09_0069.jpg09_0070.jpg09_0071.jpg


桜エビ料理の店に並ぶ観光客らしきカップルを横目に370号を汗だくでひたすら進み、
由比漁港の終わり辺り(今宿?)で右折。

道、天満大自在天神(秋葉山の常夜灯)、祠、道x3
P1010107.jpgP1010108.jpgP1010109.jpg
09_0075.jpg09_0076.jpg09_0077.jpg


由比駅を300mほど過ぎた後、右折して左折。
その途中に小池邸という休憩できそうな場所があったけど、立ち寄らなかった。

[国の登録有形文化財]
小池邸
小池家は昔、甲州武田氏家臣が当地に移住し、江戸時代には代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めました。この建物は、明治期に建てられ、大戸・くぐり戸・ナマコ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しています。町では東海道を行き交う人に休息の場として使っていただくために、購入して修復工事を行い東海道名主の館「小池邸」として蘇らせました。
平成十年三月 由比町

中の沢二号橋、看板x、小池邸
P1010116.jpg09_0079.jpg09_0082.jpg


一号線と東名高速道路x3
09_0086.jpg09_0087.jpg09_0088.jpg

14.吉原宿~蒲原宿(2)

14.蒲原宿(2007.11初旬)

東海道新幹線の下を通ってちんたら歩く。のどかというかほとんど人影がなかったかな?
道が東名高速と平行し始めたあたりから上り坂になっていてちょっと疲れた記憶がある。

ついに静岡市に突入(・∀・)
新坂橋跨道橋で東名高速の上を渡る。

なんかこの跨道橋から左富士が見れるらしい。
ぜーはー言ってて全く気づかなかったなぁ。

道x3、お地蔵さんじゃなくて観音様?、道、看板x2、新坂橋
09_0002.jpg09_0003.jpg09_0004.jpg
09_0005.jpg09_0006.jpg09_0007.jpg
09_0008.jpg09_0009.jpg


ガイドブックによれば

そのむかしは七難坂を通っていたが、富士川のたびかさなる氾濫で道が流され、天保一四年(一八四三)に、この新坂が開削された。

とある。七難坂の位置はぐぐっても今ひとつはっきりしないが、他のページの話を総合すると、新坂よりも東南、日本軽金属という会社の辺りみたい。

七難坂でぐぐってたら国文学研究資料館のページになんかあった。

驛路に三つの峻嶺あり、宇津谷坂薩埵坂、七難坂なり、三の大河あり、大河川、阿倍川、富士川なり、是皆天然の要障なり、(古事類苑>地部一>駿河國>地勢

宇津谷坂薩埵坂と並ぶ峻嶺だったようだから、昔はもっときつい道だったのかな。
(セキュリティ的に問題ないんだろうけれど、「インストール時のテストページ」は見えちゃってもいいんだろうか。あまりかこよくない。)
※久しぶりに見たらちゃんとなってたw 

古事類苑てなんだべ(´・ω・`)?

古事類苑(こじるいえん)は明治時代に編纂された類書(一種の百科事典)で、各項目について明治時代前の諸文献を引用するもの。(古事類苑

習った記憶がないな。

渡った後の下り坂、看板x2
P1010045.jpg09_0011.jpg09_0012.jpg


脚が疲れて来たので諏訪神社にて一休み。と言って下の方で。上まで上る気力などなく。ここに来る途中に「北条新三郎の墓」という看板があった。誰だべ(´・ω・`)とぐぐると、

この戦いで蒲原城の重要性を認識した北条は、北条幻庵長綱の子、北条新三郎氏信(綱重)、箱根少将長順兄弟を蒲原城に派遣、城郭を改修させた。子を失った幻庵の悲しみ 蒲原城

あの北条幻庵の息子かΣ(゚∀゚;)
まあ幻庵自体、信長の野望の内政キャラというイメージしかないけど(w

一里塚、看板、諏訪神社x3、道標x2
09_0013.jpg09_0014.jpgP1010051.jpg
09_0017.jpgP1010054.jpgP1010056.jpgP1010057.jpg


蒲原宿はかなり整備がされていた記憶がある。看板なども綺麗だった。途中で変なパイプラインを見かける。日本軽金属 富士川第二水力発電所のものらしい。

日本軽金属株式会社(にっぽんけいきんぞく、英称:Nippon Light Metal Company, Ltd.)は、日本で唯一アルミニウムの製錬工場を国内に持つ、アルミニウムの一貫生産のメーカーである。アルミニウムの加工品の他、製錬過程で発生する酸化アルミニウム(アルミナ)や水酸化アルミニウムなどの化成品の製造を行っている。(日本軽金属

なんか凄い会社だな(・∀・)

看板x3、常夜灯、パイプライン
09_0023.jpg09_0024.jpg09_0026.jpg
P1010060.jpgP1010062.jpg

てけてけ歩いていくと道は左折し、396号線に合流。
お地蔵さんでも道祖神でもなさそうな新しい石像を見かける。
野仏の会なる団体が新規に作ったもののようだ。

なまこ壁、八坂神社、塗り壁、道祖神?、かんばら野仏の会?
09_0032.jpg09_0034.jpg09_0037.jpg
09_0039.jpgP1010075.jpg


向田川橋を渡り道なりにだらだらと進む。特に何もなく。

文化センター、蒲原駅
09_0043.jpg09_0044.jpg

と、後で気づくが文化センターの辺りで「蒲原ガム」と呼ばれるイルカの
加工品を買おうと思っていたのを思い出すヽ(`Д´)ノ

更に先に進み、この道標の辺りから由比宿へ(・∀・)
でもこの道標が微妙にトラップだったような。確か車は右で歩行者は左だったかな?
柱の下の方になんか書いてあるようだけれども、完全には読み取れない。
「歩行~~ガイド」?歩行者用ガイドかな?
P1010080.jpg