カテゴリー: 感想

『釣りバカ日誌5』を観た

釣りバカ日誌5

浜崎家に誕生した、待望の赤ちゃん・鯉太郎(上野友)の顔を見るため、伝助の母・たき(乙羽信子)が九州から上京。たまたま居合わせた一之助と、鯉太郎のオムツのことで大げんか。

ある日、みち子さんが同窓会に行くため、たきに鯉太郎を預けるが、生憎ギックリ腰となり、仕方なく伝助は息子を会社に連れてゆく。ところが、仕事中、好奇心旺盛な鯉太郎が鈴木建設本社で行方不明になってしまう・・・。

今作は鯉太郎の話ばかりで釣りは少々。親バカ日誌と言った方がいいかもしれない。
というわけで今回もマドンナなし。そういう意味合いでは合わない人には合わない回かも。
冒頭の鯉太郎がいなくなったシーンや縁側シーンでのみちこさんの行動がちょっとおかしいような気がしないでもなかった。

上のページだと鯉太郎が上野友になってるけど、"上野友"でぐぐっても釣りバカ日9,10,11辺りにしか出演してないように思えるけどどうなんだろう?
まあ何にしても鯉太郎、ちんちん丸出しで鈴木建設内をうろつきすぎやで(・∀・)
今だと児ポ扱いになるんだろうか? 毛が生えてなければOKなんだろうか?

伝助の母親役として乙羽信子が出てくるけど、おしんの時と全然違う(・∀・)
やっぱり役者は凄いな。伝助と一緒に踊っててワラタw

すっぽん養殖場の前任者・須本役の神戸浩って「男はつらいよ」にも出てた人か。

鯉太郎探しのドタバタと丹後に飛ばされた後の結末くらいかな笑えるところは。
スーさんの浜崎一家への密かな愛情みたいなところは良かったかなぁ。

『釣りバカ日誌4』を観た

釣りバカ日誌4

念願かなって、めでたく懐妊したみち子さん。定期検診につきそい出産に立ち合う伝助は、例によって仕事は二の次。また、伝助と一之助の良き仲間である太田丸の船長・太田八郎(中本賢)は、しっかり者の妹・町子(佐野量子)と幸せな日々を過ごしている。

ところが、鈴木建設営業三課に勤める一之助の甥・和彦(尾美としのり)は、仕事よりも趣味に生きる自由人の伝助に憧れ、浜崎家に出入りするうちに、町子と交際を始める。しかし、それが面白くない八郎は和彦と大ゲンカ。理解のない兄貴に反発した町子と和彦は、ついに駆け落ちしてしまうが・・・

若かりし頃のイボリーこと尾美としのり。若い頃より今の方がいい男のように思えるのは気の所為だろうか?
今作はマドンナなしの若いカップルの恋愛話ネタだったな。後期もこんな感じだったっけ?

佐野量子ってあんまり記憶がない(´・ω・`)
特に好みの顔ではなかったので興味がなかったのかもしれない。
武豊の奥さんなのか。

和彦の母・字佐美浪子役の久里千春って誰や(・∀・)?と思ったが、あばれはっちゃくシリーズのお母さん役だった人らしい。お父さん役は「情けなくって涙がでらぁ(´・ω・`)」という台詞でなんとなく覚えているんだけども、お母さん役は印象に残っていない(ノ∀`)

白黒実写版のハットリくんでケンイチのお母さん役もやっていたらしいが、さすがにそれは観たことがないw 被り物のハットリくんの写真は何とか大百科で見たことはあるような気がする。

アタッチメントスーツパーツと伝助の鼻血顔と出産の時のダブルノックダウン、それにまつわるスーさんへのネチネチ辺りが今回の笑いどころかなぁ(・∀・)

あとスーさんの顔出しくらいかな。

『釣りバカ日誌3』を観た

釣りバカ日誌3

終戦の年に一之助が赴任していた思い出の地、上伊豆町・星ヶ浦(架空の土地)で釣りバカコンビは、かつて一之助と訳ありだった女性の娘・雪子(五月みどり)と釣り船を共にする。カラオケ教室の先生をしている雪子は、美しい星ヶ浦を愛し、建設会社によるリゾート開発の反対運動に参加している。

一方、伝助とみち子さんは幸せな毎日を過ごしているが、唯一の悩みは“子宝に恵まれない”ことだった・・・。

伝助の家の飾り(表札?)が2でやっていた鯛のキスゲーム?を立体化したものだったw

今回の営業三課の香織がTARAKOだった。ちびまる子ちゃんのアニメの開始が1990年1月7日でこの映画が1990年12月22日なので、ちびまる子ちゃん人気の絡みでの起用なのかな?

どうも釣りバカ日誌のマドンナは微妙な人や歳を取った人が多く、今回の五月みどりもいまいちな感じだったので、どうでもいいなーという感じで観てしまった。

まあ、このシリーズの肝はスーさんと伝助の仲だから、マドンナは若い美人じゃなくてもいいのか。

戸川純の写真立てのくだりや伝助の家や社長室でのドタバタ等々、コメディパートは文句なく面白かった。ミチコさん役の石田えりが素で笑ってるようなシーンもあったw

ロマネ・コンティや墓石とかスーさん、散財しすぎだろ(´・ω・`)
ああ、携帯電話もあれだなw

今回も伝助は写真が新聞に載って〆られる展開だったw


まあ、オールハッピーエンドでしたわ(・∀・)

NARUTO -ナルト- / 岸本斉史

NARUTO -ナルト-
関係ないけど、世界観って言葉はどうも本来の意味と違うらしいな(´・ω・`)

全72巻読破したってばよ(ヽ'ω`) イヤ、ナガスギダロ

余りにも長過ぎるので、事細かに言及する気は起きないw
「ぼちぼち面白かったよ」というような上から目線の感想なので、きっと世界中のファンから
うずまき螺旋連弾を食らいそうな気がするが、これは変えがたく(`・ω・´)

手放しで面白かったと言えないのは、幾つかどうなんだろうかなぁと思う点があったから。


微妙な点

まず第一はやはりナルトが最初から九尾持ちだったからかなぁ。

物語の根幹であるのでしょうがないんだけれども、「落ちこぼれ」が頑張って云々いう割に九尾のチャクラがなかったらどうしようもないこともあったりで、この辺がちょっとモヤった。

第二は長い

とにかく長い。3つめに挙げる点と絡んで来るが、とにかくキャラクターほぼ全員の見せ場を作る為、白化(或いは行動の擁護)の為にページをさきすぎて読んでてダレた(ヽ'ω`)

ガイ先生のところはちょっと良かったけどw 体術設定をあそこで使ったか。

第三は理想主義過ぎるというか、全てのキャラの罪を浄化する為の二重、三重の話の構造がくどすぎる

全ての始まりであるキャラも自らの信じる善の為に原罪を犯し、その力に取り込まれ、そこから何層もの悪が生まれるというか操られるという構造は最終的に原罪に全ての悪を押し付けられるけど、そこまで全キャラを浄化して救済する必要はないんじゃないかなと思った。

全然違う漫画だから較べるべきではないとは思うが、九尾つながりで「うしおととら」を想起し、紅蓮のような終わり方をするようなドス黒い存在が欲しかった。アレはそれに近いけど、結局原罪以降の存在だからなぁ。あ、暁のアイツとかは浄化されない存在だったかw でもちょっと小者過ぎるw

第四は第三と似てるかもしれないけれども、そんなに話を大きくしなくても良かったんじゃね?という点

原罪はおろか、六道仙人まですらも到達させず、マダラ辺りが白化しないラスボスとして終わっても、それはそれで良かったかなと思った。というかそれ以降は本当にくどいw

話を壮大にし過ぎてしまったために相対的に色々と他の部分が矮小化してしまった気がしないでもない。全ての争いの元は兄弟神の争いに見せかけて原罪だったという点はまあ悪くはないけど…

兄弟神の争いで止めておいても良かったしなぁ…

ちっちゃいところで、シリアスな戦闘シーンに無理にギャグを入れなくてもいいだろってちょっと思った(´・ω・`)

六道仙人もわざと崩したりする必要もない気がした。

あいつもあっさり改心しすぎだろと思ったw
イザナミこええ(・∀・)

あとはこれはこの漫画に限ったことではないが、週刊で読まずに単行本でまとめて読んだので、「この展開…前にも見たような気がする…( ;・´ω・`)ゴクリッ 違うキャラで同じ展開が繰り返されてる!?」

「これはイザナミでも、万華写輪眼でもない。この術は邪吽斧万華眼だヽ(`Д´)ノ」
などと思ったり。やっぱり週刊漫画は週刊で読むべきなのだろうか。
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良かった点

不満点はあるものの、当然良かった点もある。

まあ取り敢えず、ラストバトルは奴とだなというのはほぼ予測出来ていたわけだけれどもアソコのアレをああいう形で使ったのは良かったかな(・∀・)

でもまあ、あのエピソードって結構後で急に入ったような気がしたので、あれはもうちょい早い段階で仕込んだ方が良かったような気がした。

ナルトと父ちゃん母ちゃんとのお話辺りもええ話やった(・∀・)
この話と我愛羅絡みの話でほとんどこの物語の柱の一本は語り尽くされてるような気がする。
それ以降はキャラを替えてその話を繰り返しているように思えた。

俺氏も
「人」というものについて考えてみる-3
銭ゲバ 最終回(2)
辺りで人間の精神の仕組み的なものや人格障害というか歪みというものについて考えたことがあるので、
ナルトや我愛羅を始めとした孤独・他者からの存在価値(愛)の付与なき存在 or 愛するものを奪われる->歪み
という流れが非常にロジカルに描かれている感じがして、今までの漫画にはない印象を受け、新鮮に思えた。

まあ、その半面、それが強く印象付けられた為に、我愛羅以降の物語がやや冗長な繰り返しにも思えてしまったのだけれどもw

ガイ先生とロック・リー絡みも好きだった(・∀・)

穢土転生は漫画内で禁術だったけど、漫画としてもやや禁じ手のような気がしたw
まあそうしないと浄化出来ない人や我愛羅が可哀想というのもあったのかな。
個人的には我愛羅はナルトによって愛を与えられたことによって救われるだけでも良かったような気がするけど。

イルカ先生も良かった。血縁ではない、存在価値を付与してくれる存在。それがナルトを自らの歪み、その根底にある恐怖である無価値観を変え、ナルトもまた存在価値を付与出来る存在、大雑把に言い換えれば人を愛せる人間へと成長させ、それが我愛羅を始めとする他のキャラ達を変えていく流れは非常にロジカルであった。

終盤はほとんどカカシが主人公のように思えた(ノ∀`)
そういえばアイツの名前を逆に読めば正体はすぐ分かったんだなw


尾獣持ち

歪みや人格障害等の見方を延長して考えると、"尾獣持ち"の解釈も出来なくもないなと思った。

歴史上の偉人、天才達は概ね人家障害者乃至強い歪みを持った人達であったと推測する。
特に芸術関連においては。その才能や知能は当然他者よりも秀でていたと思われるが、必ずしも非の打ち所のない完全なものであったとは思いがたい。

彼らはその境遇(家庭環境、"身体"環境)によって自らの"価値"を高く見積もることは出来ず、歪んだ感性と思考ルーチンを備えることによって自らを守ったが、それらは類稀な感性と成り、人とは異なる作品を産み出す素となった。

これに加え脆弱な自己は成長に応じて現れる、自らの"価値"を脅かす者や状態を打倒し打破するために尋常ならざる発想と持続力を発揮する。
(正確に言えば、発揮してその危機をもたらすモノを打倒し打破出来なければ、後に天才と呼ばれることもない。それらは尾獣を制御出来ずに死んでいった人柱力のような者と考える。)

これを漫画に無理に当てはめるとするならば、

  • 孤独な、存在価値を与えられない存在     
    -> ナルトや我愛羅
  • 存在価値の危機を回避する為の尋常ならざる能力、才能
    -> 尾獣のチャクラ
  • 人格障害、歪み                  
    -> 歪んだ思考、心の闇の部分
  • 本当に恐怖するもの
    -> 自らを無価値と思わせるモノ、端的には孤独

みたいな感じで、実際の世界における"尾獣"またはその力とは作品や偉業のような顕現した結果やそれを成し遂げた行動力と考えることも出来なくもないなと思った。
そういう風に考えるとナルトの尾獣持ちもいくらか首肯出来なくもない……か?

でもよくよく考えてみると芸術系の天才とかは死後になって初めて才能を認められた人も多いことを踏まえるとこの牽強付会にはやっぱり無理があるか…(ヽ'ω`)

ナルトや我愛羅が自分の心の闇と向き合った後に心の安定を得るというのは、人格障害や歪みを持った人間が、本当に自分が恐れていたモノ-その多くは自らを無価値と思わせる全てのモノ-を認め、それを恐れていたことを受け入れた時に、良き人格に昇華する、又は少なからず全方位的な無差別な攻撃性が弱まるのと似たような感じはするんだけどねぇ。


ここまでうだうだ書いてきて、良い表現がふと思いついた。

この漫画は良い意味でも悪い意味でも余白がない(´・ω・`)

凄く色々描き込んでいて、理路整然としていたりするんだけども、それがこう、読者の思考というのか推測が入り込む余地が少ないというところが読後の違和感の原因かもしれない。

行間すらも但し書きがぎっちりと込められてるような…
その辺が俺氏的にアレだったんだな。まあでも十分楽しめたからいいんだけども。

作者の岸本斉史は単行本のおまけページで色んな描きたい漫画のネタを書いていたけれど、なんかナルトの続編みたいなの描いてない(´・ω・`)? アニメの方も観てないからよくわからないけど無限月読が発動してどうとかCMしてるし……

どういうことだってばよ…( ;・´ω・`)ゴクリッ