カテゴリー: 感想

あまでうす あまちゃんです(・∀・) 2

先のエントリは書いているうちに自分でもよく分からなくなってきたので
新たにエントリを起こすことにした(ノ∀`)


まあぱぱっと簡単に感想を述べるならば、枝葉末節はともかくも総合的には良かった(・∀・)

クドカンらしい脇役をも活き活きと描く脚本、
それにアドリブや役の作りこみで応ずる演者と演出、
視聴者の心を自在に明るくも哀しげにもする音楽、
これらの要素がまとめられ完結した作品世界を構築し
視聴者達をその世界へ取り込んでいたと思う。


まあ完全無欠の作品であったかと問われれば、ちょこちょこと不整合があるような
感じはイナメナイヨネー(・∀・)と答えざるを得ない。

特に物語の転換回の前後で春子やアキなどの人格が別人かと見紛うほどの豹変していて
「あれ(´・ω・`)?」と思ったこともしばしば。

しかしながら、15分という短い時間、OPや回想を考慮すると更に短い時間で刻んで
話数を進めなければならないことを踏まえるとそれは仕方のないことかなと思った。
ただ2点だけどうしても承服しかねることがある。
解釈の仕方や勘違いに由来するかもしれないが、なんだかもにょった。


1つ目はアキの上京時に春子が言った言葉。

「変わってないわよアキは。昔のままで地味で暗くて向上心も協調性も
存在感も花も個性もパッとしない娘だったけど、だけどみんなに好かれた。
こっちに来てみんなに好かれた。あんたじゃなくてみんなが変わったんだよ。」

感動的な台詞なんだけど、"アキは変わってないのか"という点でどうも引っかかる。
後にアキが種市に"変わらない"とか"成長"について語った部分と関わってくるのかなと
思うのだけれども、ある人物が環境の違う場所に行って前と変わらないということは
前と同じような環境でない限りは、その人物が環境適応する為に無意識的に何らかの
変化をしてるのではないかと思うのだけどもどうだろう?

まあそんな瑣末な部分での変化の話は措いておいたとしても、物語の構成は
アキが北三陸という環境において触媒的存在である夏ばっぱ、種市、ユイちゃん、
鈴鹿ひろ美と出会って化学変化を起こしたことにより話が展開し、25年前の因縁を解き、
自分を変えた地の復興の為(正確には一番大切なユイの為)に帰ってくる形だから、
DBの悟空やワンピースのルフィのように"アキ=不変的存在"という感じの表現は
あんまり納得が行かない(´・ω・`) テーマとしての"アイドル"の定義をその空間での
太陽のような存在として描こうとしてるのに北三陸に来る前のアキが余りにもパッとしない
存在としている以上、何らかの変化が生じたとしないと話が繋がらないような。

とまあ思ったけどこれは解釈の違いかもしれないので取り敢えず良しとする。


2つ目は震災後のユイの豹変。これは理屈よりも感情的に納得がいかないw

震災後に「もう行けない。怖くて行けない。アキちゃんが来てよ!(´;ω;`)」と
ユイが希求するから、ユイの為に帰ってきたのにヽ(`Д´)ノ

あの回で「あーアキxユイENDっぽいなぁ…(´・ω・`)」とストーブさん派の俺は
最後の望みを諦めたのにヽ(`Д´)ノ

もっと深い意味が込められているのかなぁとも思ったけど、あの後、いきなり
元気になってアイドルに復帰する流れを観て、なんか変だなぁと。
まあ劇中内では何ヶ月も経っているんだろうけどもGMTのサプライズ訪問で
簡単に腹黒毒舌ユイに戻ってしまうのはなんだか御都合主義が過ぎるような気が
しないでもない(´・ω・`)


基本的に最終回がクライマックスであるべきと考えてはいないので
あの終わり方は非常に良かったと思う。まあでも飛び込んでも良かったかな。
いや、飛び込むとあざといか。うーむw

暗い暗いトンネルの先に何があるかわからないけれども、遥か彼方に見える
かすかな光に向かって進まなければ何処にも辿り着かないし、友達と一緒ならば
恐れるものは何もないというアキとユイの未来を暗示するような、なんとも瑞々しい
何かを感じさせるシーンが良かった(・∀・)
俺の人生からは落丁してた青春の一ページや(´・ω・`)


インパクトがあったキャラクターはいっそん。南部ダイバーと切っても切り離せないw
好きなキャラクターは安部ちゃんと勉さんとストーブさんと鈴鹿ひろ美かなぁ(・∀・)
まあ他のキャラクターも皆好きだけどもw

鈴鹿ひろ美に関して言えば、鶴瓶の家族に乾杯?で中の人がとても面白いということが
わかって良かったw 声が綺麗なのは元々食彩の王国等で知ってたけど。
演技も凄くうまかったなぁ(・∀・)

夏ばっぱ役の宮本信子もうまいというか、素と別人過ぎて俳優こええなぁと思った。
役柄的にはちょっとクドカンの言いたいことを代弁し過ぎな感じであったけど。


能年玲奈のキラキラ具合や役へのハマり具合は凄かった。ソリティ馬風に表現するならば、
一      人
  (`・ω・´)
体      役

脚本や濃い脇役陣や音楽の良さも勿論大事だけれども、
なんだかんだ言って主人公が魅力的でないとお話にならないので、
そういった意味ではやっぱりあまちゃんの一番の功労者は能年玲奈と
言うことになるかなぁ(・∀・)

知らない人とのトークや速いやり取りは苦手のようだから、
バラエティやトーク番組への出演はほどほどにしておいて
ドラマとCMに重点を置くのが妥当のような気がするけど。

シリアスなドラマに出ても行けそうな気はするけど、
視聴者はおそらくコメディ系キャラを求めるだろうから
何年かはそういう系統のドラマに出続けるのも手だよねぇ(・∀・)

小泉今日子が昔やってた月曜ドラマランドのあんみつ姫みたいな
お転婆キャラで時代劇とかも合いそうだな。
川原泉の「殿様は空のお城に住んでいる」とか実写化しないかな。
あとはトリックの仲間由紀恵みたいに賢くて可愛いけど口が悪いキャラで
推理物とか観たい。相方は水口とかストーブさんで。


続編やスピンオフはあったら確実に観るだろうけれど、
綺麗に終わってるから、ないならないでもいい。
もう軸となる因縁がないわけだし。

まあ北三陸の愉快な面子が楽しげに毎日を過ごし、
時折発生する珍騒動でドタバタする内容でも十分面白くなりそう。


ごちそうさんは7分くらいで挫折した。子役があれなのは仕方ないとしても
吉行和子のナレがどうもアレで原田泰造と財前直見がアレだったので…
杏が出てきたらもう一度観てみようと思うけど視聴継続するかは微妙。

ちゅらさんとちりとてちんの再放送は観ようかな。

あまでうす あまちゃんです(・∀・)

本当は"人々に愛されし"とか"皆に愛されし"という感じのラテン語を
タイトルに使いたかったがわからんかった(´・ω・`)

"皆から愛される"は「dilecti omnes」という語があるらしいけど、
"あま"とかからないので駄目。「ama omnes」とか「ama populo」は
語形とかが正しいかわからないのでちょっと意味が違うけど「amadeus」で(・∀・)

あまちゃんの物語の内容に関しての感想は世に溢れているだろうから
その辺にあんまり重点を置かず震災関連でふと思いついたことを。


「あまちゃんは朝ドラの金字塔となりうるか?」

これは朝から多くの視聴者に笑顔と元気を与えたことや人気の高さによって関連製品の
売上げがNHK朝ドラ史上ぶっちぎりの一位になったことからなどの表面的な意味合いでの
金字塔のことではない。後世に残る不変のものとして金字塔という語を使ったが正確には
石碑という語で言った方が正しい。

つまり「あまちゃんは石碑となりうるか?」である(・∀・)


震災表現

開始当初からあまちゃんは"震災"をどう扱うかについてweb上で色々な説が囁かれていた。
舞台が東北であり、わざわざ時代設定を震災前まで巻き戻しての開始だったので、
"震災"は不可避であり、視聴者が"震災"がどのように描かれるかについて興味を持つことは
当然のことであった。

まあ北三陸市のモデルである久慈市での人的被害は0ではないものの他所と比べると
圧倒的に少なかったので、多分登場人物は誰も死なないんじゃないかなぁと俺氏は
思っていたけれども震災や津波の被害をどう表現するのかは気にはなっていた。

そしてドラマはあの形で"震災"を表現した。
「なぜ本当の映像を流さないのか」等と訳の分からないことを言う人も居たようだが、
あの手法は正しいというか予想以上に素晴らしいものだったと思う。
出来うる限り被災者へ配慮しながらも、作品世界を壊さない程度の、
それでいて最初から観てきた人には十二分にわかる恐ろしい表現であった。
実況民は自然と自らの"東日本大震災"とその後をレスしあった。

もしも本当の津波映像等を流していたらどうなったか?被災者の受けるショックは
当然あるが、直接的には被災者ではない視聴者達にも大きいショックを与えただろう。
それは楽しげなタイトルバックで始まるにこやかな作品世界を粉々に粉砕するに足る
破壊力を持つ。正直、あの話の後に出てくるウニが浜に打ち上げられている写真二枚
だけでもかなりのインパクトのある"リアル"であり、あれももう少し婉曲的なものに
差し替えることは出来なかったのだろうかと思ったほどである(´・ω・`)

ドキュメンタリーならば、或いは震災をメインテーマにしたドラマならば、"リアル"は
必須ではあるけれども、少なからずこのドラマはそうではないのだから、ギチギチの
"リアル"は不要である。

だからあの表現方法は正しかったと思う。
あまちゃんは作品世界を損なうことなく、あの形で"震災"を内包したのである。


ショア(Shoah)とシンドラーのリスト

かれこれ20年ほど前の頃、俺氏は不真面目な大学生だった。
まだフサフサのガリガリだった。今は見る影もないが…(ヽ'ω`)

それはさておきある一般教養の講義でショアという映画を観て
レポートを出す課題が課せられた。この映画は

『ショア』(Shoah)は、1985年のフランスの映画。クロード・ランズマン監督。上映時間は9時間30分。製作には1974年から11年の歳月を費やした。日本での公開は1995年、東京日仏学院で行われた。
ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)に関わった人々へのインタビュー集であるが、演出もところどころ行われており、全くのドキュメンタリーではない。
インタビューの対象は、被害者たるユダヤ人生還者、加害者たる元ナチス、傍観者たるポーランド人に大別することができる。
クロード・ランズマン監督はこれまでのホロコーストをテーマとした映画にきわめて批判的である。特に『シンドラーのリスト』に対しては、出来事を伝説化するものであるとして舌鋒鋭く批判している。

『ショア』(Shoah)

というものだった。上映時間からして普通の映画館では観られない
ものだったので学内の教室で土日の二日間上映したんだったかな?
不真面目な学生であった俺氏は最初の2時間くらいで飽きて帰っちゃったけどね(ノ∀`)

この講義の教授?が主張するところは監督とほぼ同じで、「シンドラーのリスト」のような
事実ではない作品が評価されて事実のように喧伝されることは問題であり、
「ショア」のような手の入っていないドキュメンタリーを事実として残していかなければならない
とかいう感じだった。(wikipediaでは"全くのドキュメンタリーではない"とあるけど
その辺どうでもいいのでほっとくw)

この時、俺氏は思った。「教授の言うことは理解できるし、そうあるべきだろう」と。
しかしそれと同時に
「この冗長な事実の塊は研究者以外の鑑賞視聴に耐えうるものだろうか」とも思った。

この映画は事実の記録としては貴重であり、残し続けていくべきものではあるが、
これを一般の人たちが気軽に見てその内容を語り合うことが出来るかというと、
それは恐らく不可能であり、その長さにより敬遠されるのではなかろうか?

つまり、「シンドラーのリスト」のように美化捏造された事実ではないことが
蔓延るのは事実の伝承の妨げになるのは当然だが、適切に処理されていない
事実の塊もまた敬遠され忘却されて同じように事実の伝承の妨げになるの
ではなかろうか?


世代交代と震災の風化

ある日、特に観る気もたまたまチャンネルを変えたらBS歴史館がやっていた。
最初は寝ぼけ眼でネットを観ていたのだが、徐々にながら見していた番組の内容に
引きつけられていった。

その回は「関東大震災90年~“防災”に賭けた二人の男~」であった。
細かい内容はあんまり覚えていないが、寺田寅彦の先見の明と防災に人生をかけた
地震学者・今村明恒の生涯は非常に興味深く唸らせるものがあった。

以下は番組内でも紹介されていた寺田寅彦の「津浪と人間」の一部である。

災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。
三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。

(中略)

災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。

津浪と人間 寺田寅彦

今でもGoogle等が震災の記憶を風化させまいと頑張っているが実際の所、どうだろうか?
正直な所、俺氏はあまちゃんで"震災"を再体験するまで結構忘れるというか記憶の風化が
かなり進んでいたと思う(´・ω・`)

人間は忘却機能によって哀しみや辛さを乗り越えて行く生き物だけれども
忘れてはいけないこともある。寺田寅彦の文章に( ゚Д゚)ハッとさせられた。


恐らく物理的な石碑は寺田寅彦の言うように動かされ草に埋もれて忘れ去られるだろう。
ドキュメンタリー映像は"リアル"に凄惨さを映し出すが故に敬遠され顧みられなくであろう。
"震災"をテーマにしたドラマは美化捏造された事実が故にそのドラマ的感動のみが強く
記憶され、本質たる事実は多くの人々の頭の中に残らないであろう。

稲むらの火は厳密に言えば美化捏造の類であり、嘘も方便と言えば通らぬこともないが、
やはり防災教材としての側面と五兵衛の犠牲的精神が強調され、事実の伝承が妨げ
られている感はイナメナイヨネー(・∀・)

こう考えていった時に、事実の伝承に必要な物は出来るだけ手を入れていないが利用
しやすい形に整えられた事実の塊と、後世に残り続けて人々の記憶を活性化し注意を
喚起出来る-事実を捻じ曲げず、ありのまま過ぎずに内包しつつ人口に膾炙する-
物の両方なのではなかろうか。


と言ったようなことが頭の中で繋がった時にふと思いついたのが
冒頭の「あまちゃんは石碑となりうるか?」という疑問である。

正確に言えば疑問というよりも、そうなって欲しいという願望か(・∀・)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まだまだあまちゃんブロガーなのでオチは特にない( ・´ω・`)

『銀座の恋の物語』『幸福のスイッチ』他を観た

銀座の恋の物語

( ´・ω・)あれ?この映画のwikipediaの項目がないような…

開始時の設定は以下のような歌謡メロドラマ。

伴次郎はジャズ喫茶のピアノひきの宮本と一つ部屋を仕切って同居する絵かきで、「銀座屋」の針子秋山久子を愛していた。そして二人は一緒に考えた“銀座の恋の物語”を大事に胸に秘めていた。

銀座の恋の物語

1962年3月4日公開て生まれてもないわ(´・ω・`)
久子が両親を空襲で亡くしてるとか言ってたな、そういや。

凄く面白いかと言えばあれだが、昔の映画であることを踏まえて
劇中内の風俗などを楽しめられるなら、ぼちぼち面白い。
ベタベタでした(・∀・)

江利チエミの役って後付というか本質的部分には必要ないような。
深江章喜が演じた沢村って江利チエミに話しかけて逃げてから
その後出てきたっけ?うーむ覚えていない。


幸福のスイッチ

「イナデン」は地域の人達に親しまれている、『お客第一・儲けは二の次』がポリシーの小さな電器屋。三姉妹の真ん中・怜(上野樹里)は、母が亡くなるまでもそれから後も、家族よりお客からの修理依頼などのアフターサービスに尽くす父・誠一郎(沢田研二)の姿がどうしても我慢できず、反発して上京した駆け出しのイラストレーター。だが肝心の仕事でも上司と衝突し、とうとう会社を辞めてしまう。そんなある日、怜のもとに現在妊娠中の長女・瞳(本上まなみ)が倒れて入院したとの手紙が、三女の香(中村静香)から届く。

いいお話系だけどあんまりあわなかった(ノ∀`)
上野樹里や三女役の中村静香はまあ良かったけど…
ほんじょさんは昔よりは上手くなった感じはしたけど
妊婦さんがあんな俊敏に動いても大丈夫なんだろうかと思った(ノ∀`)
沢田研二もうーん(´・ω・`)
結構前に亡くなった深浦加奈子も出てた。

中村静香の太もも鑑賞映画だと言われたらそうかもしれない(*´・ω・)


やればやれるぜ全員集合!!

日陰村。村の鼻つまみものの(ドリフの)五人は賽銭泥棒をしているが、収穫は300円そこそこ。五人はケチな泥棒はやめ、大志をいだいて東京へ出ることにする。 ヒデ(加藤茶)は小学校以来の先輩・長吉(いかりや長介)には頭が上がらない。
 一年後、港湾労務者として働く長吉とヒデの二人の姿があった。二人のマドンナは食堂で働くみっちゃん(松尾嘉代)とリカ(木の実ナナ)。
やればやれるぜ 全員集合!!

前に観たバス会社と鉄道会社に別れて対立する「なにはなくとも 全員集合!!」は
どちらかと言うと微妙だったけど、これはぼちぼち面白かったかな(・∀・)
色々とハチャメチャだったw 木の実ナナの顔がなんか違うような気がした。

今の加藤茶の現状を思い返すとなんだか哀しくなったが(´・ω・`)


どら平太

或る小藩。ここでは、町奉行が不明瞭な辞職を繰り返していた。そんな矢先、江戸から望月小平太なる新任がやってくる。ところが、その男には振る舞いの不埒さから_どら平太_という渾名がついていた。実際、着任する筈の期日を10日も過ぎても、彼は奉行所に出仕しない始末なのだ。

https://moviewalker.jp/mv31640/

話の筋自体はいいし役所広司もいいんだけれどもなんだか微妙な仕上がり。
出てる人も有名どころなんだけどなぁ…

2000年公開の作品だったから松重豊も若かったw
浅野ゆう子は合ってなかった感じ。鶴太郎もなぁ…(´・ω・`)

なんで浅野ゆう子演ずるこせいが夜鷹に追われて逃げ込んだ時に
悪者は抜け荷のことをあんなにもペラペラと話したのかは謎w

平太を室内で襲撃した時の人数多すぎw
技の変なスローモーションは浮き過ぎw

なんか平太をスーパーヒーローにし過ぎなところも駄目だったような。

関係ないが三匹が斬る!の千石のスピンオフとか観たかったなぁ…


キネマの天地

浅草の帝国館で売り子をしている田中小春は、旅回りの役者だった父喜八と二人で長屋で暮らしていた。ある日、松竹の小倉監督の目にとまり、蒲田撮影所を訪れたところ、いきなり端役に駆り出された。しかし、その演技がうまくいかず落胆して父の下へ帰る。そんな小春を助監督の島田が迎えに来たことから、気を取り直して撮影所に就職することになり、大部屋女優として出発する

この話は結局誰が主人公なんじゃヽ(`Д´)ノ

まあ

松竹大船撮影所50周年記念作品。この映画製作の契機としては、東映出身の深作欣二が『蒲田行進曲』(1982年。つかこうへい原作・脚本)を撮ったことを野村芳太郎プロデューサーが無念に思い、松竹内部の人間で「過去の松竹映画撮影所」を映画化したいという思いがあったという。

ということなので、ストーリー自体はどうでも良かったのかもしれないw
全般的に全てが新しくて最初は戦後の話かと思って観てた。

出演陣は豪華だった。まあ豪華なだけだったとも言えるが。
松本幸四郎の浮き具合がなんとも言えぬ。
作品自体はいまいちな感じがする。

よくよく考えてみると松坂慶子と平田満は蒲田行進曲と
こっちの両方に出てるんだなw

一応の主人公である田中小春は藤谷美和子が演じる筈だったが、降板したらしい。
代わりに採用されたのが有森也実。可愛いけど、なんかあんまりトップスターとか
メインの女優のイメージがないな、この人。wikipediaを観るとちょこちょこ出てるみたいだけど。

いまいち中井貴一の演じる島田というキャラの必要性がわからなかったなぁ。
出川哲朗が出ていたらしいが見逃した(ノ∀`)

途中で出てきた富士山の見えるゴルフ場は眺めが良かったな(・∀・)

まあでも渥美清と倍賞千恵子が兄妹役じゃなくて絡んでいたのが
観れたので良かったということにしよう。

『メイン・テーマ』『パーマネント野ばら』他を観た

メイン・テーマ
…(ヽ'ω`)

薬師丸ひろ子の映画だから外れはあるまいと思って観たが久しぶりの外れ映画。
最後まで観るのが苦痛だった…_| ̄|○ 主題歌は良かったけど…

『メイン・テーマ』は、1984年に角川書店が制作した日本の青春映画である。カラー・101分。森田芳光監督。主演は薬師丸ひろ子、野村宏伸。
片岡義男原作とあるが、片岡義男の書いている「メイン・テーマ」シリーズの中に、この映画と同じストーリーのものはないので、オリジナル・ストーリーである。ダットサントラック4WDで旅に出る青年など、映画と共通するキャラクターや部分的に重なるストーリーはある。このように、作品の題名や背景だけを借用したかのような作品は、当時の角川映画には多かった。

うーむ(;^ω^)

野村宏伸がこの映画絡みで世に出てきた人ということを初めて知った。
教師びんびん物語の人というイメージしかなかった(ノ∀`)

野村宏伸はこの映画の「薬師丸ひろ子の相手役募集」オーディションに応募して、23000人の中から合格した。実は唐沢寿明もこのオーディションに参加しており、最終審査まで行ったという(唐沢の自伝書「ふたり」から)。このとき野村が「将来は何になりたいか」という質問に「サラリーマンになりたいです」と答えたので印象に残ったという。津田寛治もこのオーディションを受け落選している。

最後の方は真面目に観てなかったというか途中から苦行に耐える感じだったので
見逃してしまったのかもしれないが、なんで御前崎の奥さんが最後洗濯干しに
目覚めるのかもよく分からなかったなぁ…(・∀・)

今まで観た薬師丸作品で初めて心の中で銭形警部を召喚した映画だった (ヽ'ω`)


パーマネント野ばら

深夜にやってたのを適当に観たけど、んーまぁまぁ(´・ω・`)?
見終わった後、落ちはどっちなのかと思いwebの他の人の感想を読んだり。

途中で階段を降りていく二人を見た女学生のリアクションが変だったり、
泊まりに行った時に「あれれー変だぞー(・∀・)」という引っ掛かりを
感じたが、チェーンソー親父やら不倫親父やDV男、ギャンブル依存症男達に
よって違和感はかき消されてたな。

恋愛というかそういう感じの要素はあんまり好きでもないのでその辺では
特に感じ入ることもなかったけど、池脇千鶴が演じるともちゃんが後半で
人は忘れられた時に二度目の死を迎えるみたいな感じのことを言ったのを
後で反芻して、合点が行くことがあった。
「ああだからパーマネント屋さんが実家という設定なのか(・∀・)」と。

そういう意図があったかどうかは不明だが、permanentという単語とは
裏腹に一定の間隔で当てなおさなければならないパーマネントは
人の儚い記憶と似てるなぁ、意図的に手を入れ続けなければ記憶は風化していくなぁと
なんとなくタイトルと内容のつながりを見出した…気分になったw

これも原作を読んでみたいなぁ。


蘇る金狼
※おっぱいあり映画(*´・ω・)

株式会社東和油脂に勤める29歳のサラリーマン、朝倉哲也は上司からの信頼厚い真面目実直の社員である。しかし、彼にはある計画があった。夜ごとにボクシングジムに通い肉体を鍛える彼は、トンネル会社などを利用して私腹を肥やし会社を食い物にする重役たちの姿を垣間見る。自分もその一人になる野望を抱いた朝倉は、2年の準備期間をかけて計画を練り、実行を開始した…。

松田優作かっけーって感じのまま話が進むピカレスクロマン映画(´・ω・`)?
松田優作が演じる朝倉哲也の生い立ちとか心情が全くわからないので
なんでこの人は悪事を行ってでも成り上がろうとするのかがいまいちつかめない。
つまらなくはないけど、感情移入して観るものでもないので
成功しても失敗しても「あそー( ´_ゝ`)」って感じになってしまう。
なんで不要になった京子とまた…( ・´ω・`)?とも思った。

成田三樹夫、山西道広、岸田森、千葉真一辺りが出てた。


荒野の用心棒

ある日、アメリカ=メキシコ国境にある小さな町サン・ミゲルに流れ者のガンマンが現れる。この街ではギャングの2大勢力が常に縄張り争いをしていた。ガンマンは酒場のおやじシルバニトからそれを聞かされる。ガンマンは早撃ちの腕前をギャングたちに売り込み、2大勢力を同士討ちさせようと試みる。

まあ普通におもろいのぅという感じ(・∀・)

本作品は映画の筋書きや登場人物、演出、台詞などからわかるとおり明らかに黒澤明の『用心棒』の翻案である。クリント・イーストウッドに出演依頼を行う際に「日本映画のリメイクを作る」と伝えている[2]。しかし、監督のセルジオ・レオーネと製作会社は公開にあたり黒澤明の許可を得ていなかった。そのため『用心棒』の製作会社がレオーネたちを著作権侵害だとして告訴、勝訴している。この裁判の結果を受けて『荒野の用心棒』の製作会社は黒澤たちに謝罪し、アジアにおける配給権と全世界における興行収入の15%を支払うことになった[3]。また、この裁判の過程で映画の著作者が受け取る世界の標準額を知った黒澤は東宝に不信感を抱き、契約解除、ハリウッド進出を決意させる要因にもなった。

監督も阿呆やけど東宝は間抜けというべきか(ノ∀`)

まあこの映画のみの話ではないけど、この辺の西部劇が
イタリア映画というところが面白いなぁ(・∀・)

1960年代初期からイタリアでは西部劇が作られていたが、そのイタリア製の西部劇、いわゆるマカロニ・ウェスタンが世界的に知られるようになったのは『荒野の用心棒』のアメリカにおける大ヒットからである。

だからマカロニ・ウエスタン言うんかと納得したが、

マカロニ・ウェスタンは、1960年代から1970年代前半に作られたイタリア製西部劇を表す和製英語。大半のものはユーゴスラビア(当時)やスペインで撮影された。
イギリス・アメリカ合衆国・イタリアなどでは、これらの西部劇をスパゲッティ・ウェスタン (Spaghetti Western) と呼んでいるが、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』が日本に輸入された際に、映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」ということで「マカロニ」と呼び変えた(中身がないという暗喩も含んでいるという説もある)。

と外国ではスパゲッティ・ウエスタンらしいw

色々と面白い(・∀・)